2013年1月25日金曜日

大日本地名辞書 編者:吉田東伍 1907年版(初版=1900年)













北方 (福浦)
北方南方は今二村に分てど、本来一色とす、西郷の西方三里半、其西に福浦湾と号すゐ小港あり。視聴記云、福浦(フタラ)は富浦とも云ふ、辰巳の方へ海湾入りて、十三町ばかり又北の方より山埼突を出て、舟を泊すへし、磯竹(イソタケ)島(朝鮮蔚陵島)へ渡るもの、此にて晴を量り、風を占ひ舟を出すとぞ、富浦の直西四里の海上に、桂(カツラ)島あり。


磯竹島は又竹島と云ひ、韓人之を蔚陵島(ウヌショム)と号す、此遠島の古名を于山(ウショム)と云ふにより、鶏林拾葉には之をウルマに同じと論じたり、ウルマの島人は権記及ひ本朝麗藻公任家集等に見え、其島人我寛弘年中に漂到じたることあり、韓土の史志には、三国史記智証王十二年(我継紀辛卯歳)于山国を討服したる事を初めし、高麗史にも見えたり、殊に輿地勝覧に云く、



(蔚珍縣 于山島)←←なぜか、タイトルの于山島を省略している。


欝陵島。 一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌業掌空、南峯稍卑、風日清明、則峯頭樹木及山根沙渚、歴歴可見。風便則二日可到。一説于山、欝陵本一島。地方百里。
新羅時恃險不服。智證王十二年、異斯夫爲何琵羅州軍主、謂、于山國人愚悍、難以威服、可以計服。乃多以木造獅子、分載戰船、抵其國誑之曰、汝若不服、則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆、獻方物。
毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥、可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視、柔立回奏云。島中有大山、從山頂向東行、至海一萬餘歩、向西行一萬三千餘歩、向南行一萬五千餘歩、向北行八千餘歩。有村落基址七所、或有石佛鐵鍾石塔、多生柴胡藁本石南草。
後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃、多珍木海錯。遣使往觀之、有屋基破礎宛然、不知何代人居也、於是移東郡民以實之。及使還、多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟、人多物故、因還其居民。
本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多、再命三陟人金麟雨爲按撫使、刷出、空其地。麟雨言、土地沃饒、竹大如杠、鼠大如猫、桃核大於升、凡物稱是。
世宗二十年。遣縣人萬戸南顥、率數百人往捜逋民、盡俘金丸等七十餘人而還、其地遂空。
成宗二年。有告、別有三峯島者。乃遣朴宗元往覔之、因風濤不得泊而還。同行一船、泊欝陵島、只取大竹大鰒魚。回啓云、島中無居民矣。



我慶長征韓の後、辺海の漁民は竹島に往来して占居の姿を為ししにや、視聴記伯耆志に磯竹島往復の事を載せ、伯耆志には其渡海の始末を記す。


元和三年竹島渡海許状
従伯耆国米子、竹島江先年船相渡之由、然者如其、今度致度海渡之段、村川市兵衛大屋甚吉申上付而、逹上聞候之処、不可有異議之旨、被仰出候聞、被得其意、渡海儀、被可仰付候、恐恐謹言
五月十六日
永井信濃守(尚政)、井上主計頭(正親)、土井大炊頭(利勝)、酒井雅楽頭(忠世)
松平新太郎殿(当時因州光政)


此市兵衛正清の子正勝の時、元緑七年渡海せしに、若干の朝鮮人在島しければ、即帰帆して其旨を官に上聞し、同八年官命を得て渡海したるに、朝鮮人已に島中に満ちたり、我往航の者、彼朝鮮人両口を捕へ、舟を帰し其旨を官に訴ふ、翌年官より我米子の竹島渡海を禁ぜらる、


[伯耆志]按に元緑以前此島、一時米子買舶の手に帰せしことは、芝峯類説にも之を説明す、云く
蔚陵島、壬辰変後、人有往見者、亦被倭焚掠、無復人煙、近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹、即蔚陵島也。
而て元緑の朝鮮人占有に至り、江戸幕府は対州宗氏に命し、彼国に談判せしむ、
其交渉始末は竹島紀事の一書あり、之を録したり、当時宗氏は被を責めて曰く、
連年貴国、瀕海漁船、雑然来往、本国竹島、竊為漁採、以恣私意。況又今春、漁採彼地者四十余口、我国因幡州牧、拘留其漁氓二人。●●啓事状於東都、由是報告制禁於貴国、今還漁氓云云。
然るに朝鮮礼曹は悍然とし之を拒み
「蔚陵は本来我属島なり、文跡昭然、且彼に遠く此に近く、境界自ら別つ、貴国錯認して事を生ず」と論す、
我幕府遂に屈して和與を為し、竹島渡海を禁制す、実に元禄十二年也。
安政の比、松浦武四郎竹島雑志を著し、論述を為す。


明治維新後、又漁民の来往するものありて、地志提要には隠岐国の下に附載して曰く、
土俗相伝ふ、福浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に至る、海路凡百三十六里と、


松島とは輿地勝覧の三峯島なるべし、
明治十六年、更に日韓両政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所属と為しぬ。



2013年1月20日日曜日

韓海通漁指針

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/kankaitsuugyo-1903/07.jpg
目次を見れば、リャンコ島が江原道に属している。

http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/kankaitsuugyo-1903/

ヤンコ島。鬱陵島より東南の方三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆ど同里数の海中に於て、無人の一島あり。晴天の際 鬱陵島山峯の高所より之れを望むを得べし。韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、長さ殆んど十余町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し。然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之を牽けども容易に水を得ずと云う。 此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑・海鼠・石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を属して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に妨げられたると。飲料水欠乏との為に、満足に営業すること能わざるして還りたると。察するに当時の季節は恰も五六月にして、海馬の産卵に当りしが故に、特にその妨害をうけたるものならんか。 また、付近に鱶漁の好網代あり。数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引き続き之に出漁するものあり。昨年春、同処より帰航したる漁夫に就いて之を聞くに、出漁した二三回に過ぎざるが故に、未だ充分の好果を得たりと云うべからざれ共、毎季相応の漁獲あり。従来の経験上、その網代の状態、及び鱶類棲息の規模等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑わずと。 同島は、盖し営業者の為には尚充分探検の価値あるべし。

2013年1月19日土曜日

明治の国家主義団体幹部も「独島は朝鮮領」=韓国教授

http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2012/09/24/0200000000AJP20120924002800882.HTML


明治の国家主義団体幹部も「独島は朝鮮領」=韓国教授

2012/09/24 18:11 KST文字拡大 文字縮小印刷 【ソウル聯合ニュース】「


 鬱陵島から東南に約30里、隠岐国北西と同じ距離にある海に無人島が一つある。晴れた日には鬱陵島の山の峰からそれが見える」――。

 日本の国家主義団体、黒竜会の幹事だった葛生修亮は著書「韓海通漁指針」(1903年)で独島をこのように描写した。彼はこの本で独島を「ヤンコ島」と呼び、島の長さは「十余町」で沿岸は入り組んでおり漁船が波風をしのぐのに適していると説明した。

 また、飲み水や燃料などの入手は難しいと記している。

 韓国外国語大学の李永鶴(イ・ヨンハク)教授は、葛生修亮が「独島を鬱陵島の頂上から見える朝鮮の領土と認識していた」と説明した。またこの本には独島と鬱陵島についての詳細な説明があり、日本の漁民の立場から二つの島の領海は、恵まれた漁場だと記述されているという。

 1903年のこの本の出版にあたり、推薦の言葉を書いたのが日本の農商務省水産局長だった牧朴真だった。彼は独島と鬱陵島が朝鮮の領土だと認識していたと李教授は指摘する。

 李教授によると、明治政府は明治初期から独島を朝鮮の領土だと認識し、日本の海軍水路部が出版した1894・1899年版「朝鮮水路誌」では「リアンクール列岩(独島)」を朝鮮領としている。

 李教授は、鬱陵島と独島周辺は漁業資源の宝庫で、特にあわびの漁場として有名だったため、日本の漁民が不当な操業を行い、朝鮮政府と漁民との間で衝突起きたと話した。

 李教授は25日から韓国で開かれる世界韓国学大会で、「19世紀後半の日本漁民の東海密漁と朝鮮人の対応」というタイトルで研究論文を発表する。

hirata@yna.co.kr

2013年1月16日水曜日

独島 – 竹島と20世紀初日本の領土認識

独島 – 竹島と20世紀初日本の領土認識
http://dokdo-takeshima.jp/dokdo-in-the-early-20th-century.html


竹島独島問題の発端 日本の1905年僞法的竹島編入
http://dokdo-takeshima.jp/%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%AE%E7%99%BA%E7%AB%AF.html


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2013年1月10日木曜日

田辺太一付け書

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田辺太一付け書
竹島考証に
http://take8591.web.fc2.com/06web/1881kosyo/030sita/3000.htm
田辺太一の意見は下記の通りです。


第23号で、「松島は我邦人の命せる名にして」とします。ダジュレー島が「松島」であるのは、シーボルトが名付けたもので、「我邦人の命せる名」ではありません。すると、田辺太一の言う「松島」はリャンコ島である可能性が高いと思います。
続けて、「(松島)は朝鮮蔚陵島に属する于山なり」とします。現竹島は、韓国称独島であり、明治10年の当時は「于山島」と呼ばれており、于山島は鬱陵島の属島と考えられていたことが分ります。
更に、「蔚陵島の朝鮮に属するは 旧政府の時一葛藤を生し 文書往復の末 永く認て我有とせざるを約し 載て両国の史に在り」とします。「文書往復」において「松島」の文言は現れません。しかし、松島が朝鮮領となったのは、「于山島は鬱陵島の属島」たる日朝共通認識が元禄期の幕府にあり、これを明治政府も踏襲したものと考えられます。


以上は、アラレさんの意見を私なりに解釈したものです。


但し、アラレさんの意見には次の疑問点があり、この疑問が解消されてたのか否か確認していません。
① 竹島考証で問題となっている「松島」はダジュレー島のことであると考えられ、田辺太一が敢えてリャンコ島を「松島」として議論に参加することに如何なる意義があるのでしょうか。
② 田辺太一は、第13号で自説を述べるだけでなく、第14号・第17号に付け書しており、そこでは「松島は朝鮮の『蔚陵島』にして」・「松島は朝鮮の『鬱陵島』にして」と記しています。この両島と于山島の関係をどの様に考えていたのでしょうか。




第二十三号 丁 公信局長 田辺太一
竹島考証下p48


聞く 松島は我邦人の命せる名にして其実は朝鮮蔚陵島
に属する于山なりと 蔚陵島の朝鮮に属するは 旧政府
の時一葛藤を生し 文書往復の末 永く認て我有とせさ
るを約し 載て両国の史に在り 今故なく人を遣てこれ
を巡視せしむ 之れ他人の宝を数ふといふ 況んや隣境
を侵越するに類するをや 今我と韓との交 漸く緒に就
くといへとも 猜嫌猶未た全く除かさるに際し 如此一
挙よりして 再ひ一隙を開かんこと 尤も交際家の忌む所
なるへし 今果して聞くの如くならんには 断然松島を
開くへからす 又松島の未た他邦の有に 属せさるもの
たる判然たらす 所属曖昧たるものなれは 我より朝鮮
へ使臣を派するに際し 海軍省より一艘の艦を出し之
れに投し 測量製図家 及生産開物に 明かなるものを
誘ひ 彌無主地なりやも認め 利益の有無も慮り 後ち任地
につき 漸と機会を計り 縦令一小島たりとも 我北門の
関放擲し置くへからさるを告くて 之れを開くに しか
さらんか故に 瀬脇氏の建言する所 採る能すさるなり




浦潮港日記 瀬脇寿人
竹島考証下p28


松島は 朝鮮の蔚陵島にして我版
図中ならす 斉藤某の願意は許
可するの権なき旨答ふへし
右者公信局長 田辺太一 附け札也



公信第三号 瀬脇寿人 第十七号
竹島考証下p39


松島は朝鮮の鬱陵島にして 我版図中のものならす
文化年間 既に朝鮮政府と往復の書ありと覚ゆ 我
にて開墾着手するは 固よりあるましき事由を 答
ふること然るへし 且帰路上陸港等見分すへきとの
旨は 如何なる船を雇ひ 此事を図る積なりや 海軍
の一艦を借るか 三菱の汽船を傭ふか 其見込も達
疎に近し 況んや 上海へ至り 直売の條約をなす如
きに至りては 未た 出すまてに至らさる島の 立
木を何等の算方ありてその約をなす迄に 見込の
附へきや 大切談 夢に近きものと被考候
後事処分は伺の趣にても 差支あるまし 但未知平
学の何人たるを
右者公信局長 田辺太一 附け札也





Kaneganese said...
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/02/rie-akia-angers-korean-netizens-with.html


take_8591様


こんにちは。


take_8591様は、この、yabutarouさんによる半月城氏の改竄の証拠を具体的に示して下さった方と同じ人物と考えてよろしいでしょうか? (すぐ上の人はこのサイトだけでも幾つものIDを使い、よそのサイトを入れると数え切れないIDを使い、しかも論破される度にHPを書き直す(させる、などと約束しては守らず、全く違うIDで投稿する、卑劣な人ですので、基本的に放置するようブログ主から指示されています。それにしても、画像の恣意的改竄はこれに限らず、あのHPでは日常茶飯事で言葉で言ってものらりくらりと逃げ回って結局直さないので、take_8591さんのように一目で分かる画で反駁するのは中々よい方法ですね。参考になります。acEdemicは笑わせて頂きました。take_8591も意図的ではなかったようですし、間違いを茶化すのは趣味ではないのですが、相手は何しろ母国語で、こちらは外国語ですので、多少のユーモアは許されても良いかと思います。)


また、ご指摘の『朝鮮竹嶋渡航始末記』については、昨年春浜田を訪れて現物を確認すると同時に、森須和男氏に色々教えて頂きました。私には、この本の編者が朝鮮領として松島まで赤く塗ったのか、文中に出てくる島として赤く塗ったのか判断が付きませんが、この本は後世に誰か(浜田周辺の出身ではない)不明の別人の手によって様々な資料を集めて編まれたものであるが、誰であったかわからない、とのことでした。この件については、一度きちんと纏めようと思いつつ、昨年夏から公私共に多忙になり、今まで後回しになっており、関係者のかたがたに大変失礼なことになっています。皆様すみません。何れにせよ、八右衛門の証言は明確に記録が残っており、当時の浜田の関係者が松島(今日の竹島)は朝鮮領ではなく、この島へ渡っていたと言い訳すれば赦免されると考えていたことは明確ですので、それが幕末を通して広く伝わり、明治初期の「竹島」なら朝鮮領だが、「松島」であれば日本領だから開発可能、という認識に繋がったのではないかと考えています。この後世の別人による図がどういった意味を持つのか、解釈が異なることと思いますが、恣意的改竄は頂けませんね。ちなみに私がブログに載せた図は、川上健三氏のもので、確か新宿の神社にあるものだったように記憶しています。


「意訳」も、興味深く拝見させて頂きました。田辺の件についてちょっと考えをまとめてみたので、よろしければこちらをご覧になって下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/4the-22nd-column-seeking-truth-based.html?showComment=1265522713552#c1325985060257903120


日本語で全く構いませんので、これからもご意見頂戴できれば幸いです。他の方がされているようにYahooとのダブル投稿や、連携投稿でも構いませんよ。また、私たちの書いた物で、間違いを発見された時は是非お知らせ下さい。特に初期の物は、あまり読み返したくないのですが、おそらく誤りが少なくないことと思いますので、適宜改竄...もとい、訂正して参りたいと思っています。


以上、今後ともどうぞよろしくお願い致します。


7/2/10 15:08
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/02/rie-akia-angers-korean-netizens-with.html?showComment=1265522891927#c1818713177628567026





091109 Kaneganese said...


田辺太一の言説について、一部のみを取り上げて、しかもなんと司馬遼太郎まで持ち出してくる方がいらっしゃるので、一度ここで整理して自分の考えをまとめたいと思います。御意見いただければ幸いです。何れ、時間を見つけて英文にしたいと思っています。



『竹島考証』の中の田辺太一の言説



田辺は『竹島考証』の14号、17号(何れも瀬脇の文)のあとに付箋をつけて意見を述べていることが分かります。その意見とは、「松島ハ朝鮮ノ蔚陵島ニシテ我版圖中ナラス」なので、開発してはいけない、という物でした。彼は他にも、21号で甲乙丙の意見を紹介し、22号で渡邊が巡視を要請した後、23号で再び田辺は「聞ク松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其實ハ朝鮮蔚陵島ニ屬スル于山ナリト」と、伝聞調で語っています。(この「属する」という部分をもって于山島が現竹島だと言う人がいますが、これは18世紀以降の朝鮮での于山島=竹嶼と考えれば齟齬はありません。田辺は実際于山島がどこにあるか地図上で示していません。単なる伝聞として述べているだけです。しかも、彼は「斷然松島ヲ開クヘカラス」と、この松島を開発可能な大きな島として語っています。現竹島を想定していないことは確実です。)そして最後に巡視に反対します。



しかし、その意見の後に北澤の注記があり、田辺の意見は数年後、最終的に反故にされ、渡邊の意見の通り、鬱陵島の巡視が行われ、結果竹島とは竹嶼であり、旧于山島=Argonaut=竹島は、存在しないと結論付けられます。開発不可能な現竹島は、島根県等の情報提供にも関わらず、明治政府は一貫して興味を示しておらず、天城艦もこの島は素通りです。



ここで、14号と17号の付箋ですが、おそらく、田辺が議論の後に付けたものではないかと思います。彼は伝聞として于山が鬱陵島の属島だと述べますが、結果的に、「松島ハ朝鮮ノ蔚陵島ニシテ我版圖中ナラス」なので、開発してはならないとの意見を二度にわたって述べます。この付箋が北澤の結論の後なのか、前なのか、判然としませんが、何れにせよ、田辺の最終意見は、「松島ハ朝鮮ノ蔚陵島」という、明治政府の共通見解と同じ判断を示したことになります。23号の伝聞を紹介した一文のみを取り上げ、田辺の意見だと歪曲して主張することは、全くの詭弁に他なりません。(ただ、あられさんは別の意味でこのブログに非常に貢献されていらっしゃるので、私はこれからも大歓迎したいと思っています。延々と水掛け論を展開することになりますが、英語で何度もこの件について強調できるのは悪いことではありません。そのうち、渡邊の松島の儀二も投稿したいと思っています。先日報道された島根県の県治要令の件と含めて全体で考えると、田辺の勘違いぶりも明治期の混乱を解き明かす大変重要な文書であることは変わりがありません。)






松島は我邦人の命せる名にして其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり
48頁 - FC2



take8591.web.fc2.com/06web/1881kosyo/.../3048.htm - キャッシュ



... の金は費しても然るへし 又或は蔚陵島と竹島は同島異名の事判然し 松島も亦竹島と同島異名為るか如し 否らさるも其属島なる ... 局長 田辺太一 聞く 松島は我邦人の命せる名にして其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なりと 蔚陵島の朝鮮に属するは 旧政府の ...









44頁 - FC2



take8591.web.fc2.com/06web/1881kosyo/.../3044.htm - キャッシュ



聞くか如きは 松島は我邦人の命せる名にして 其実は朝鮮蔚陵島に属する于山なり。蔚陵島の朝鮮に属するは 旧政府の時 一葛藤を生し 文書往復の末永く証て我有とせさるを約し 載て両国の史に在り 今故なく人を遣てこれを巡視せしむ 此を他人の宝を数ふ ...









第二三号 松島巡視要否丁 田辺太一 - 猛の竹島掲示板控帳



take8591.wiki.fc2.com/.../第二三号 松 巡視要否丁 ... - キャッシュ



聞く 松島は我邦人の命せる名にして其実は朝鮮蔚陵島. に属する于山なりと 蔚陵島の朝鮮に属するは 旧政府. の時一葛藤を生し 文書往復の末 永く認て我有とせさ. るを約し 載て両国の史に在り 今故なく人を遣てこれ. を巡視せしむ 之れ他人の宝を数ふといふ ...









Dokdo-or-Takeshima?: A Debate with Steve Barber (Frogmouth)



dokdo-or-takeshima.blogspot.com/.../debate-with-steve-bar... - キャッシュ



2011/12/16 ? 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」についてですが、arareさん、この文章の最後 .... 蔚陵島ニ属スル于山ナリ」は、「鬱陵島は・・それは実は朝鮮鬱陵島に属する于山である」という奇妙奇天烈な文になります。









(竹島=独島)認識



www.han.org/a/half-moon/hm084.html - キャッシュ



竹島一件」の決着; 明治政府の竹島=独島放棄; 竹島、松島の島名混乱; 明治期における外務省の竹島=独島認識; 明治政府関係機関 ..... そのため、竹島の所属についても、因幡、伯耆に属する島でもなく、ましてや「日本に取候」という島でもないと明言しています。 ..... 松島は、わが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮 蔚陵島に属する于山である。 ... 注1)川上健三『竹島の歴史地理的研究』古今書院,1996 (注2)「松島巡視要否ノ議」 「・・・松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮 蔚陵島ニ属スル于山ナリ蔚陵島ノ朝鮮 ...









竹島一件



www.han.org/a/half-moon/hm094.html - キャッシュ



2003/04/10 ? 聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮 蔚陵島に属する于山である。 ... 注2)下記(注3)より引用 「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮 蔚陵島ニ属スル于山ナリ蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書 ...









明治政府の竹島=独島版図外確認



www.kr-jp.net/ronbun/park/park200810.html - キャッシュ



明治の初年に到り、正院地誌課に於て其(竹島=独島、筆者注)の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版に ... 田中は、その論文において竹島と松島を一時混同したが、いずれにしても官撰地誌が竹島と松島を日本領外にしたという理解に ... 最初の質問は7か条から成るが、内容は「因州伯州え付候竹島」がいつ頃から両国の付属になったのか、竹島はどのような島か、他 ..... さらに古来の松島については「聞く、松島は我が邦人の命名した名前であり、その実は朝鮮の蔚陵島に属する于山なり」と述べ、 ...









半月城通信 No.94



www.geocities.jp/half_han/hm094.html - キャッシュ



聞く、松島はわが邦人の命じた名前で、じつは朝鮮 蔚陵島に属する于山である。 ... 引用 「聞ク 松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ 其実ハ朝鮮 蔚陵島ニ属スル于山ナリ蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時 一葛藤ヲ生ジ 文書往復ノ末 永ク証テ 我有トセサルヲ約シ ...









091109-050 - 独島又は竹島 現代



dtot2000.wiki.fc2.com/wiki/091109-050 - キャッシュ



竹島問題 ・于山島検証動画part1 / 竹島(? ... 此國ハ日本海中・西邊ノ絶嶋ニシテ、其西北海上ニ松嶋・竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆・一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、 ... それれがシーボルトの地図を契機に、今日の鬱陵島を「松島」、それよりも西にある幻の島を「竹島」と呼ぶようになりました。 ..... 実際、新しい文書は、中で、島根が1877年のDajokan Orderのもう一つの島が実はUlleungdoであったと明らかにわかるとわかりました。 ..... 聞くが如きは「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其實ハ朝鮮蔚陵島ニ屬スル于山」 ...









NO215~220



www15.ocn.ne.jp/~hide20/burogu22.html - キャッシュ



なお 文政11年(1828年)の自序のある因府江石梁編述の『竹島考』には、「松島ハ隠岐国ト竹島トノ間ニ有小嶼ナリ 其島一条ノ海水ヲ隔 .... 独島)認知が正確であったことを印象づけているが、鬱陵島と竹島(独島)を朝鮮領土に色づけした地図は問題にしていない。 ... 以上通覧してきたように、鬱陵島は李太祖の時代までは、芋陵、羽陵、蔚陵、武陵等種々に呼ばれていたが、その使用の文字の ... 一方国名として呼ばれていた于山も、李朝太宗時代に至って島名に転用されるようになり、ここに2島説が生まれる素地を作る ...



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