2013年1月25日金曜日
大日本地名辞書 編者:吉田東伍 1907年版(初版=1900年)
北方 (福浦)
北方南方は今二村に分てど、本来一色とす、西郷の西方三里半、其西に福浦湾と号すゐ小港あり。視聴記云、福浦(フタラ)は富浦とも云ふ、辰巳の方へ海湾入りて、十三町ばかり又北の方より山埼突を出て、舟を泊すへし、磯竹(イソタケ)島(朝鮮蔚陵島)へ渡るもの、此にて晴を量り、風を占ひ舟を出すとぞ、富浦の直西四里の海上に、桂(カツラ)島あり。
磯竹島は又竹島と云ひ、韓人之を蔚陵島(ウヌショム)と号す、此遠島の古名を于山(ウショム)と云ふにより、鶏林拾葉には之をウルマに同じと論じたり、ウルマの島人は権記及ひ本朝麗藻公任家集等に見え、其島人我寛弘年中に漂到じたることあり、韓土の史志には、三国史記智証王十二年(我継紀辛卯歳)于山国を討服したる事を初めし、高麗史にも見えたり、殊に輿地勝覧に云く、
(蔚珍縣 于山島)←←なぜか、タイトルの于山島を省略している。
欝陵島。 一云武陵。一云羽陵。二島在縣正東海中。三峰岌業掌空、南峯稍卑、風日清明、則峯頭樹木及山根沙渚、歴歴可見。風便則二日可到。一説于山、欝陵本一島。地方百里。
新羅時恃險不服。智證王十二年、異斯夫爲何琵羅州軍主、謂、于山國人愚悍、難以威服、可以計服。乃多以木造獅子、分載戰船、抵其國誑之曰、汝若不服、則即放此獣踏殺之。國人恐懼來降。
高麗太祖十三年。其島人使白吉土豆、獻方物。
毅宗十三年。王聞欝陵地廣土肥、可以居民。遣溟州道監倉金柔立往視、柔立回奏云。島中有大山、從山頂向東行、至海一萬餘歩、向西行一萬三千餘歩、向南行一萬五千餘歩、向北行八千餘歩。有村落基址七所、或有石佛鐵鍾石塔、多生柴胡藁本石南草。
後崔忠獻獻議。以武陵土壌膏沃、多珍木海錯。遣使往觀之、有屋基破礎宛然、不知何代人居也、於是移東郡民以實之。及使還、多以珍木海錯進之。後屡爲風濤所蕩覆舟、人多物故、因還其居民。
本朝 太宗時。聞流民逃其島者甚多、再命三陟人金麟雨爲按撫使、刷出、空其地。麟雨言、土地沃饒、竹大如杠、鼠大如猫、桃核大於升、凡物稱是。
世宗二十年。遣縣人萬戸南顥、率數百人往捜逋民、盡俘金丸等七十餘人而還、其地遂空。
成宗二年。有告、別有三峯島者。乃遣朴宗元往覔之、因風濤不得泊而還。同行一船、泊欝陵島、只取大竹大鰒魚。回啓云、島中無居民矣。
我慶長征韓の後、辺海の漁民は竹島に往来して占居の姿を為ししにや、視聴記伯耆志に磯竹島往復の事を載せ、伯耆志には其渡海の始末を記す。
元和三年竹島渡海許状
従伯耆国米子、竹島江先年船相渡之由、然者如其、今度致度海渡之段、村川市兵衛大屋甚吉申上付而、逹上聞候之処、不可有異議之旨、被仰出候聞、被得其意、渡海儀、被可仰付候、恐恐謹言
五月十六日
永井信濃守(尚政)、井上主計頭(正親)、土井大炊頭(利勝)、酒井雅楽頭(忠世)
松平新太郎殿(当時因州光政)
此市兵衛正清の子正勝の時、元緑七年渡海せしに、若干の朝鮮人在島しければ、即帰帆して其旨を官に上聞し、同八年官命を得て渡海したるに、朝鮮人已に島中に満ちたり、我往航の者、彼朝鮮人両口を捕へ、舟を帰し其旨を官に訴ふ、翌年官より我米子の竹島渡海を禁ぜらる、
[伯耆志]按に元緑以前此島、一時米子買舶の手に帰せしことは、芝峯類説にも之を説明す、云く
蔚陵島、壬辰変後、人有往見者、亦被倭焚掠、無復人煙、近聞倭奴占拠磯竹島、或謂磯竹、即蔚陵島也。
而て元緑の朝鮮人占有に至り、江戸幕府は対州宗氏に命し、彼国に談判せしむ、
其交渉始末は竹島紀事の一書あり、之を録したり、当時宗氏は被を責めて曰く、
連年貴国、瀕海漁船、雑然来往、本国竹島、竊為漁採、以恣私意。況又今春、漁採彼地者四十余口、我国因幡州牧、拘留其漁氓二人。●●啓事状於東都、由是報告制禁於貴国、今還漁氓云云。
然るに朝鮮礼曹は悍然とし之を拒み
「蔚陵は本来我属島なり、文跡昭然、且彼に遠く此に近く、境界自ら別つ、貴国錯認して事を生ず」と論す、
我幕府遂に屈して和與を為し、竹島渡海を禁制す、実に元禄十二年也。
安政の比、松浦武四郎竹島雑志を著し、論述を為す。
明治維新後、又漁民の来往するものありて、地志提要には隠岐国の下に附載して曰く、
土俗相伝ふ、福浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に至る、海路凡百三十六里と、
松島とは輿地勝覧の三峯島なるべし、
明治十六年、更に日韓両政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所属と為しぬ。
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