2012年12月28日金曜日

1877年の太政官指令が領有権論争に終止符を打つ決定的文書

【書籍】独島の真実、日本のごり押し主張に反論する~1877年の太政官指令が領有権論争に終止符を打つ決定的文書[10/19] (271)


[本]独島の真実、日本のごり押し主張を反論する


チョン・テマン氏、5年間研究して資料と数学的に‘独島は私たちの土地’立証


チョン・ヨンウン記者


http://photo.hankooki.com/newsphoto/2012/10/19/etc0120121019154805.jpg


去る2月25日にソウル駅で繰り広げられた「独島(トクト)はわが領土フラッシュモブ」を動画で見たことが
ある。「独島はわが領土」の歌に合わせて軽快な律動を見せた彼らの明るい表情は本当に感動として
残っている。現場で拍手喝采を送る老若男女みんなのように動画を見て力強い応援の拍手をした記憶
はまだ生々しい。


独島と関連したもう一つの「感動」が本で出てきた。30年間国税庁で公職生活を送った租税専門家チョン・
テマン氏が「太政官指令が明らかにする独島の真実」という本を書いた。


彼は5年前、「いったい日本が何の資料を根拠に独島を自分たちの土地だと言い張るのだろうか?」と
いう漠然として単純な好奇心で独島に対する研究を始めたという。2009年、名誉退職後、時間と努力を
投資して独島に対する歴史資料と国際法などを調べた。


この本は独島に対する日本の主張が誤っていることを資料と数学的接近を通して立証する。


1部では今日の日本総理訓令に該当する「太政官指令」が独島領有権論争に終止符を打たなければ
ならないほど決定的文書であることを糾明した。太政官指令本文と付属文書、付属地図の模写本をの
せて、翻訳と解説を付け加えて日本の主張が虚構であることを知らせる。


1690年代朝鮮粛宗の時、漁夫が鬱陵島(ウルルンド)で日本漁夫と衝突した事件が両国の外交交渉
につながり、その結果、独島を含む鬱陵島は朝鮮の領土であるという結論に至った。


この事実を1877年に内務省の意見を受け入れて日本の最高国家機関である太政官が公式に確認し
た文書が太政官指令だ。この文書は100年近く隠蔽されてきたが、1987年、日本京都大学教授の論
文発表で世の中に知らされた。


2部は光復(解放)後に締結された独島に関する3つの国際条約を通して独島は韓国領と解釈される
ことを糾明した。3部は地理的に独島が韓国領であることを数学的技法で証明した。


著者は「日本の主張は私を驚かせた。彼らの宣伝・扇動に知らず知らずに眩惑された人が少なくない
という事実も驚くべきことだった。なんとしても独島問題に対する真実を明らかにして、その内容を広く
知らしめなければならなかった」と回顧した。朝鮮ニュースプレス発行。1万5,000ウォン。


ソース:スポーツ韓国(韓国語) 入力時間 : 2012.10.19 15:48:33
http://sports.hankooki.com/lpage/life/201210/sp2012101915483395530.htm
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2012年12月25日火曜日

属島意識のゆえに、幕府と明治政府は松島を版図外とした

http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.656

池内氏はひたすら松島、竹島をめぐる史実の解明に努め、村川市兵衛や大
谷九右衛門の松島渡海の実態や、両者の利害関係を調整した旗本、阿部四郎五
郎の役割などを解明し、こう述べました。
--------------------
1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料(8)傍線部に見られる
ような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松
島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれ
を実行に移していた。
こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部
四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許
可ではありえない。
また、「市兵衛殿・貴様(九右衛門のこと、半月城注)へ」交付した「証
文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市
兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実
化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。先年渡してお
いた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内
意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡
海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものでは
なかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c)
を重視したのはその点と関係する(注2)。
--------------------

竹島(鬱陵島)渡海免許が出された1625年ころは、まだ松島(竹島=独
島)の存在は知られなかったのか話題になりませんでしたが、1657年ころ、は
じめて村川家が松島へ渡海するようになった後、同島への渡海をめぐって大谷
家と利害調整をする必要が生じました。
それを取りもったのが旗本、阿部四郎五郎ですが、同時にかれは松島渡海
に関して老中の「御内意」を得たようでした。これをふくらませて川上健三氏
は「松島渡海免許」なるものを創造したようですが、池内氏はこれに疑問を呈
しました。
--------------------
三代目大谷九右衛門は松島拝領と渡海について述べるものの、「寛永初年
竹島渡海免許」のごとき文書の存在については言及しない。
また、寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査
がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるもの
は見当たらない。(川上説の、半月城注)発行からわずか10年を隔てない時
期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか(注2)。
--------------------

もし「松島渡海免許」が存在するなら大谷船はそれを当然携行すべきなの
に、それがなかったということは最初から存在しなかったと考えるのが妥当で
す。それを池内氏は文献考察からも上のような論理を組み立て、こう結論づけ
ました。
--------------------
以上を要するに、「松島渡海免許」なるものは存在しないのである。万治
元年~寛文の交に現れた事態は新たな渡海免許発行ではなく、渡海をめぐる大
谷・村川両家の利害調整に過ぎなかった。
寛文六年(1666)、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年竹島渡海
免許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかったのは蓋し当然であっ
た。
--------------------

松島渡海に際して免許が出されず、老中の「御内意」で済まされたのは、
松島は「竹嶋渡海筋」にあたり、同島に対する認識が「竹嶋近所之小嶋」とか
「竹嶋之内松嶋」というもの、すなわち松島は竹島の属島と理解されたためだ
ったと思われます。
また、実際に松島渡海も竹島への渡航がてらになされたようで、竹島あっ
ての松島だったようでした。こうした属島意識のゆえに、幕府が竹島(鬱陵
島)放棄の際、外交書簡で松島についてふれなかったのにもかかわらず、のち
の明治政府が竹島(鬱陵島)と同時に松島(竹島=独島)までも版図外とした
のではないかと思われます。


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2012年12月23日日曜日

太政官指令文研究  保坂祐二

http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%BF%9D%E5%9D%82%E7%A5%90%E4%BA%8C_%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6


太政官指令文研究


1877年の太政官指令文が「竹島(現在の鬱陵島)外一島」を「日本の版図外」としたことに関して、太政官指令文の外一島に関する内容を分析した。太政官指令文は、まず「外一島」は松島であるとし、松島は周囲が約30町(約3.3km)で竹や樹木が無く、魚と獣(アシカ)が取れるとしている。彼はこの点を上げ、この文書の中の「外一島」とは松島、すなわち現在の竹島(独島)であり、結局太政官が現在の竹島(独島)を朝鮮領土と認定したと主張する。

さらに太政官指令文には、松島(現在の竹島)は「隠岐から竹島(鬱陵島)に行くとき、同一航路上にあり、隠岐から約80里(地上の距離では約320km、しかし、後述のように彼は当時海上の距離としての里は現在の海里に近かったとしている)の距離である」と記されている文章を指摘しながら、17世紀以来日本人たちは多くの文書で隠岐と松島の距離を約70-80里と記してきたという文献的事実と、里を海里と理解した場合、80里は約148kmとなり実際の隠岐~竹島(独島)間の距離157kmに近くなることなどを指摘しながら、距離的にも「外一島(松島)」は現在の竹島(独島)であると主張する。
 (明治政府は1872年の時点で水路部により海上の1里を正確な1海里(=1.852km)とすることを決定しているが、保坂はその後の1877年のこの公的指令文の里も海里(浬)と解している。1905年1月28日に古来の松島を竹島と命名して島根県に編入することを決定した閣議決定文書には、隠岐と現在の竹島の距離を85浬<海里>と正確に書いている。)[7] 

保坂は、太政官指令文の「外一島」が現在の竹島(独島)であることは、指令文に添付された地図である「磯竹島略図」が金沢教会の漆崎牧師によって発見・公開され、より明確になったとしている。(指令文添付の「磯竹島略図」は国立公文書館に保存されているもので、以前より研究者のネットで公開されている。)

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太政官指令文に対する下條正男の見解を中心に 保坂祐二

太政官指令文に対する下條正男の見解を中心に
http://www.dibrary.net/search/dibrary/SearchDetail.nl?category_code=ct&service=KOLIS&vdkvgwkey=22997209&colltype=YON_ART&place_code_info=132&place_name_info=%EC%97%B0%EC%86%8D%EA%B0%84%ED%96%89%EB%AC%BC%EC%8B%A4(3%EC%B8%B5)&manage_code=MA&shape_code=B



見出し/責任表示事項
'竹島問題研究会'の '竹島問題に関する調査研究最終報告書'の問題点 : 大政官ジリョングムンに対するShimojoMasaoの見解を中心に = 島根□ '竹島問題□究□'の '竹島問題に□する調査□究-最終報告書'の問題点 : 太政官指令文に□する下條正男の見解を中心に / ホサカ維持

著者: ホサカ維持, 世宗大学校人文大学教養学部(日本学専攻) 助教授 E-MAIL: hosaka@sejong.ac.kr


2007年5月、下条正男教授が座長を務める島根県「竹島問題研究会」は、2年間継続した「竹島問題に関する調査研究」を終え、「最終報告書」を提出した。

この最終報告書の中で、下条正男は1年前の中間報告で認めた内容(=太政官が松島「独島」を日本領ではないという指令を出したこと)を翻し、再び太政官指令の中に登場する「竹島外一島」のうち、竹島は実際には存在しない島であり、外一島は松島ではあるが欝陵島であって、独島ではないと主張した。

彼は、2005年の著書と2006年の中間報告では、外一島を独島と認め、1877年に太政官が欝陵島と独島を朝鮮領と認めたことを告白した。しかし2007年の時点で、彼は再びそれを翻した。彼は、太政官はシーボルトが誤って記した日本地図を見て、そこに記載されたアルゴノート(Takashimaとも記載、存在しない島)とダジュレー(Matushimaとも記載、経緯度から欝陵島である)を「竹島外一島」として版図外宣言をしたと主張する。しかし、太政官がシーボルトの地図を見て判断したという資料的根拠はどこにも存在しない。

太政官指令文の中に記載された松島に関して精密な分析をすれば、紛れもなく今日の独島を指していることが判明する。指令文に添付された「磯竹島略図」を見ても「竹島外一島」が現在の欝陵島と独島であることは一目瞭然で誰にでも分かる。下条が良心を捨てた歪曲行為を繰り返すのは、韓国側は騙せなくとも、専門知識の無い日本の国民と日本政府を騙せると考えているからであろう。


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2012年12月22日土曜日

双方の主張に疑問点 池内敏

http://www.asahi.com/special/t_right/takeshima/

双方の主張に疑問点
名古屋大教授 池内敏氏

近世日朝関係史が専門。史料の実証研究の立場から竹島をめぐる日韓の主張を検証。韓国・檀国大東洋学研究所特別研究員の経験もある。53歳。(2012年11月1日現在)

歴史的にも、国際法的にも、明らかに我が国固有の領土。日韓政府は竹島(独島)について互いにこう言い張り、一歩も譲らない。だが、それぞれの主張には見逃せない弱点がある。

韓国側は、古文献や地図に現れる「于山島」が竹島を指し、千年をはるかに超える領有意識があったとする。だが子細にみると、とうてい竹島と解せないものを数多く指摘できる。于山島を無条件に竹島と置きかえる主張は成り立たない。

また、日本編入に先立つ1900年、当時の大韓帝国が勅令で「石島」を鬱陵島の郡守の管轄下に置いたことについて、石島は竹島だと断定し、領有意思の証拠とする主張も同意しがたい。「石島=竹島」と直接的に裏づける史料は今のところ存在しないからだ。

日本側の主張にも疑問が浮かぶ。江戸時代初期、鳥取藩の町人が幕府の許可のもと、竹島を中継地に鬱陵島周辺で漁業をした史実から「遅くとも17世紀に領有権を確立」とする見解がその一つだ。鳥取藩はその後、幕府の照会に2度、「竹島(当時の名称は松島)は藩に属さない」と回答している。それを踏まえて幕府が出した鬱陵島渡海禁止令は、竹島を含めて日本領土外と見なしたと解釈するのが自然だ。

明治期を見ても、1877年に明治政府の太政官が地籍調査に関して出した「竹島外一島は本邦に関係なし」とした指令▽竹島編入に慎重だった内務省の姿勢など、日本の領有意思に疑いを挟む史料が存在する。「1905年の編入は、近世の領有意思の再確認」と主張するのは無理がある。

結局、現段階の史料研究の到達点では、日本編入時に竹島がいずれかの国に属していたという決定的論証はない。その限りでは、「無主の島」を取得したという日本の主張は、当時の国際法に照らして形式上は有効となりうる。

だが、慎重な判断を要すべき史実もある。

韓国では近年、日本が領土編入する直前の1900年前後に、鬱陵島の朝鮮人が竹島周辺で漁をしていた史実の発掘が精力的になされている。「独島」という呼び方は、その頃の記録に初めて現れている。日本編入の契機となった隠岐の実業家の建議の背景には、朝鮮人漁民との競合があった可能性を想定する必要があるかもしれない。

さらに、日本編入の翌年にその事実を知った大韓帝国の大臣らが「独島が日本の領土というのは全く根拠のない話」と述べ、調査を命じた公文書が存在する。それ以上の記録は見つかっていないが、大臣らの対応ぶりから、日本の編入手続きの前に、韓国が竹島を自国領とみなしていた可能性は捨てきれない。

だとすれば、日本に抗議しなかったのはなぜか。植民地化に向かう動きと関係していたのか、別の事情があったのか。当時の大韓帝国の判断構造を解明する必要がある。

このように1905年の日本の編入手続きは、微妙な課題を含む。にもかかわらず、政府が「無主地先占による編入だ」と開き直っていてもよいのだろうか。論拠に疑いのある見解を教育現場に持ち込むことも問題だ。むろん、それは韓国側にも言えることだ。

2012年12月20日木曜日

竹島=独島問題入門 内藤正中

竹島=独島問題入門 書評
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4884000781/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

竹島=独島問題入門―日本外務省『竹島』批判



説得力があって、わかりやすい



内藤氏を批判するブログをいくつか目にしたので、どんな本なのか
興味本位で読んでみました。
ブログで批判されていた内容とは大きく違って資料が明示され
とても説得力がありました。
驚いたのはヒステリックに一方的に引かれたと思っていた李承晩ラインが
実はマッカーサーラインを継承したものだったことです。
また竹島をめぐって4人の日本人犠牲者がいたことは知っていましたが、
韓国独立前に30余人の韓国漁民が米軍の爆撃演習の犠牲になっていたことを
知りませんでした。問題は単純ではなく東西冷戦に対する米国の思惑に
左右された島でもあったようです。
なぜ外務省が現在の様な主張をするのかを考えると地元で利益を得られる...
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投稿日: 5か月前 投稿者: フミヤ





自分の国を売って何を得る気なのか


内藤氏は、1905年の日本の竹島の島根県編入は、武力によって為されたものであるので違法と断言されているが。
しかし当時の韓国側の資料を調査しても、韓国が領土と認識していたのは鬱陵島までであり、竹島に関しては領有の意思は確認される資料が存在しない。
また、そもそも武力による領土獲得が国際法で禁じられたのは、第一次世界大戦後のパリ不戦条約からであり
島根県編入時点では国際法の上で問題とされるものではない。
道理や倫理の問題として許せないと主張するのは、ただの論点のすり代えに過ぎません。
何故なら、このような論理が正当化されるのであれば、朝鮮半島はいまだに日本の領土であり、連合国が無理やり奪ったと日本人が主張するようになれば韓国側もそれを尊重する必要が出てくる。...
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投稿日: 2010/4/3 投稿者: とも



説得力があって、わかりやすい, 2012/9/19

By フミヤ - レビューをすべて見るAmazon.co.jpで購入済み(詳細)
レビュー対象商品: 竹島=独島問題入門―日本外務省『竹島』批判 (単行本)
内藤氏を批判するブログをいくつか目にしたので、どんな本なのか
興味本位で読んでみました。
ブログで批判されていた内容とは大きく違って資料が明示され
とても説得力がありました。
驚いたのはヒステリックに一方的に引かれたと思っていた李承晩ラインが
実はマッカーサーラインを継承したものだったことです。
また竹島をめぐって4人の日本人犠牲者がいたことは知っていましたが、
韓国独立前に30余人の韓国漁民が米軍の爆撃演習の犠牲になっていたことを
知りませんでした。問題は単純ではなく東西冷戦に対する米国の思惑に
左右された島でもあったようです。
なぜ外務省が現在の様な主張をするのかを考えると地元で利益を得られる
人たちの陳情を無視できないからでしょうか。
このような本が非国民扱いされて抹殺されずに堂々と出版されることに
日本の健全さを感じました。 レビューを評価してください
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自国の罪と向き合う勇気を持つべき, 2012/9/12

竹島問題は、明治以降の日本の韓国併合の歴史と深い関係があります。そのことを無視して、竹島問題は、歴史とは関係ないとする態度は不誠実であり、それこそ傲慢でしょう。

歴史の事実として、明治10年(1877年)に明治政府が出した「太政官指令」文書に「竹島外一島の件は本邦と関係なしと心得るべし」とあります。日本政府は長年その事実を隠してきましたが、国立国会図書館でその事実を示す公文書が見つかり、言い訳ができなくなりました。ただ、その後、外務省は、そこで言われている「竹島」や「外一島」は、現在の竹島ではないと主張しています。内藤氏は、そうした外務省の主張がいかに不誠実であり、こじつけであるのかを本書にて丁寧に議論しています。

初めから、「竹島は日本の領土」という前提で思考停止するのではなく、日韓の歴史を丁寧に考察してゆく中で、日本が竹島をどのように自国に編入していったのかを考えるべきでしょう。尖閣諸島の問題と違って、竹島の領有権の問題は、それほど簡単に日本の領土だと言えるものではありません。明治政府が出した太政官指令文書の問題を始め、日本が竹島を領土に編入した1905年が、日本の朝鮮半島植民地化の過程(日本は、1904年に中国大陸に進出していた日本軍の圧力を背景に、韓国に日韓条約を締結させ、保護国化し、事実上の外交権を奪っていた)、であることを考えた時、日韓双方とも、丁寧な歴史の検証を通して、竹島問題を考えるべきです。

日本がかつて隣国を侵略したという歴史の事実と向き合うこと、そして竹島問題の背後には、そうした歴史の問題があると主張することは、決して、自国を売ることでも、自国を裏切ることでもありません。自国の罪と向き合い、悔い改める勇気を持つことこそ、真の意味で国を愛することに通じると信じます。

英国の歴史家EH・カーが言うように、「歴史とは現在と過去との対話」です。今私たちが、どれだけ過去の歴史と真摯に向き合うことができるのかが問われています。 レビューを評価してください



内藤氏は正しい, 2012/9/3

独島は韓国領だと考える内藤正中の主張は実に正しい。
日本は歴史資料を捏造し、100年ほど前に勝手に日本領だと言っているに過ぎない。
外務省も、そういうことがわかっているから、韓国政府に強く出られないのだろう。
世俗の争いについては、私は本来どうでもいいと思っているのだが、この件に関しては、我が国は敗北を認め、独島を韓国領だと公式に認めるべきだと思う。




外務省批判よりも、もっと先にあるもの, 2012/3/2

外務省の局長や次官を見ると、旧華族のような姓名だ。
結局、東大で家系も重要な時点で彼らが日本を守ろうというのが違うと思う。
新卒でしかほとんど入れない官庁を改造をしないとだめだ。
だから、抽象的に外務省を批判をしても意味がないと思う。
ただ、外務省にプレッシャーを与える意味では効果があると思う。
だから、★3つ。
もっと、外務省などのキャリアになっている人間の実態を調べて書いて欲しい。
特にノンキャリなんかは外務省と一括りにされるのは嫌だろう。
上が腐っているから、こんなことになっているし。 レビューを評価してください



自分の国を売って何を得る気なのか, 2010/4/3

By とも "tomo" (広島県)

内藤氏は、1905年の日本の竹島の島根県編入は、武力によって為されたものであるので違法と断言されているが。
しかし当時の韓国側の資料を調査しても、韓国が領土と認識していたのは鬱陵島までであり、竹島に関しては領有の意思は確認される資料が存在しない。
また、そもそも武力による領土獲得が国際法で禁じられたのは、第一次世界大戦後のパリ不戦条約からであり
島根県編入時点では国際法の上で問題とされるものではない。
道理や倫理の問題として許せないと主張するのは、ただの論点のすり代えに過ぎません。
何故なら、このような論理が正当化されるのであれば、朝鮮半島はいまだに日本の領土であり、連合国が無理やり奪ったと日本人が主張するようになれば韓国側もそれを尊重する必要が出てくる。
ついでに申し上げれば、韓国は対馬や沖縄も韓国の領土と主張する事があります、これも日本が武力で奪っただけとのことですから、韓国の立場を尊重するなら対馬や沖縄の返還にも応じる必要が出てくる。
このように議論は際限なく拡大するから、国際法というものが存在するのですから

さらに1900年の太政官令によって、鬱陵島と他一島は日本の領土ではないとの見解が示され、この他一島が竹島であると内藤氏は主張するが
しかしこれは当時、領有権が問題となっていたのは鬱陵島に関して示した政府の見解であり。竹島に関しては如何なる記録を調べてもそのような記録はない。
当然、ここで問題となる他一島に関しても鬱陵島の事だと考えられる。

鬱陵島には多数の属島が存在し、その中でもっとも大きな竹嶋又は観音岩の事を示すと解釈するのが普通です。
竹島は鬱陵島から90キロも離れている事から、これを属島と考えるのは無理があり、現に過去の国際法廷の判断でも40キロはなれた島を属島と看做す事は出来ないとの判断も示されています。

そもそも内藤氏は竹島が韓国の領土と主張する、ほとんど唯一の法文学者ですが
共産主義に傾倒し、特に北朝鮮との主体思想に染まり、日教組の主体思想の勉強会の講師を務めるなど
イデオロギーが実に偏った人物と言うしかない。
竹島は韓国領土と主張する日本の学者として、韓国では竹島問題が紛糾するたびに持ち上げられるが。
しかし北朝鮮に傾倒して、主体思想を広めようとする人間が韓国で良識的だと信じられるのは妙な事だ。
結局、韓国は彼は日本人だから認めている、日本側も本心では独島(竹島の韓国側の呼称)は韓国のものだと認めている証拠だ
このように言いたいから取り上げるだけでしょう。
もし内藤氏が韓国人であれば、間違いなく売国奴と罵られ、韓国では外国勢力と手を組んで民衆を扇動する人物を逮捕する
外患扇動罪という刑罰が存在するそうですから、それで逮捕されてしまうでしょう。
そういう人物であることを理解した上で彼の主張を考えてください。 レビューを評価してください
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この商品
竹島=独島問題入門―日本外務省『竹島』批判 作成者 内藤 正中 (単行本 - 2008/10)¥ 840
在庫あり

2012年12月8日土曜日

竹島問題とは何か  池内/敏

竹島問題とは何か 書評


内容紹介
発売日: 2012/12/20
歴史分析の光に照らし、学問的に確実に言いうることとは何か。日韓双方の史料に精通する著者が、過熱する両国の自己中心的な議論を乗り越えて、近世から現代に至る竹島問題の全体像を余すところなく描き出す。不毛な論争を終わらせ、冷静に問題に向き合うための必読の著作。


商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
歴史分析の光に照らし、学問的に確実に言いうることとは何か。日韓双方の史料に精通する著者が、過熱する両国の自己中心的な議論を乗り越えて、近世から現代に至る竹島問題の全体像を余すところなく描き出す。不毛な論争を終わらせ、冷静に問題に向き合うための必読の成果。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
池内/敏
1958年愛媛県に生まれる。1982年京都大学文学部卒業。1991年京都大学大学院文学研究科博士後期課程中退。鳥取大学教養部講師、助教授などを経て、名古屋大学大学院文学研究科教授、博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

登録情報
単行本: 402ページ
出版社: 名古屋大学出版会 (2012/12/20)
言語 日本語
ISBN-10: 4815807183
ISBN-13: 978-4815807184
発売日: 2012/12/20


最も参考になったカスタマーレビュー
7 人中、7人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0 竹島の帰属を語る前に、まず歴史の真実を知ろう 2012/12/28
By qingxiu

2012年の後半、ぼくの中では領土問題がマイブームだった。いろいろ読んだが、感想を書く余裕があまりない。そんな中で本書はまず書いておこうと思った。池内敏さん(名古屋大)の名は堀和生さん(京都大)の名前とともに印象に残っていたからだ。ためらうことなく買い、最後まで一気に読んだ。いつも思うが、いい論文、著書というのは専門外の人間にも共感を与えるもので、池内さんのこの本はそのお手本のようなものである。読者を引きつける、読みやすさの原因の一つは原文を引用するとき、現代語訳を出し、原文をあとに添えたり注にまわしているからである。これだと専門外の人間でも負担が少ない。うまい。もう一つは、論証の過程がとても緻密なのである。ちょうど、中国語学でいえば音韻論の論文を読むような謎解きに似た快感を覚える。それはたとえば『穏州視聴合記』にある「然則日本之乾地、以此州為限矣」の「此州」がどこを指すかが従来問題とされていたが、池内さんは、この資料の中での「州」あるいは「島」の用法をすべてあげ、その「州」が当時の竹島(鬱陵島)ではなく隠岐国のことであるとした。また、韓国の古地図にある、「于山島」=竹島とされてきた説に対し、これを100枚以上の古地図を調べ、そうでないことを証明したなどである。

「竹島」は古来鬱陵島の付属島として考えられてきた。その鬱陵島に対し幕府は何度も日本領でないことを認め、渡航を禁じてきた。

竹島が日本領となるのは1905年、ちょうど韓国が保護国化される手前で、これが日本の植民地化の過程の一つとして問題になるのだが、そのころまでは日本も日本領とは考えていなかったのである。一方韓国も、一時は空島化政策がとられていたほどで(そのため自然が保護された)領土意識はなかったが、日本が「先占」するのとほぼ同じころに領土意識をもつようになっていったようだ。だから、結論としては、どちらにとっても「固有の領土」ではなく、20世紀初頭になって領土意識が芽生えたのである。また、サンフランシスコ条約で「竹島」の帰属が日本と韓国の間でどんどん変わっていったことと、それに絡むラスク書簡の判断の根拠を問題にする。それは要するに、本当はどちらのものとも言いかねるという結論になるのである。ここからどうすべきか。道はおのずと示されているが、池内さんはそれ以上を語らない。


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