2012年12月25日火曜日

属島意識のゆえに、幕府と明治政府は松島を版図外とした

http://www.han.org/a/half-moon/hm091.html#No.656

池内氏はひたすら松島、竹島をめぐる史実の解明に努め、村川市兵衛や大
谷九右衛門の松島渡海の実態や、両者の利害関係を調整した旗本、阿部四郎五
郎の役割などを解明し、こう述べました。
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1640年代後半ないしは50年代はじめから、右史料(8)傍線部に見られる
ような松島経営の展望を温めていた村川からすれば、たとえ単独であっても松
島渡海事業は行いたかったであろう。そして遅くとも明暦3(1657)年にはそれ
を実行に移していた。
こうして村川単独による松島渡海の既成事実が進められていた以上、阿部
四郎五郎の存生中に老中から得たという内意(史料7b)は、松島渡海の新規許
可ではありえない。
また、「市兵衛殿・貴様(九右衛門のこと、半月城注)へ」交付した「証
文(史料7c)もまた同様に松島渡海の新規許可ではありえない。それらは「市
兵衛殿・貴様」両者へ交付されたものであったから、村川単独により既成事実
化された松島渡海を追認し、免許を与えるものともなりえない。先年渡してお
いた「證文」どおりに「船御渡可被成」(史料7d)ともいうのだから、「内
意」にしろ証文にしろ、おそらくは村川が先行して進めていた単独での松島渡
海を刷新し、大谷・村川双方による渡海事業へと調整する内容をもつものでは
なかっただろうか。大谷と村川の「談合」(史料5f)や「御相談」(史料7c)
を重視したのはその点と関係する(注2)。
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竹島(鬱陵島)渡海免許が出された1625年ころは、まだ松島(竹島=独
島)の存在は知られなかったのか話題になりませんでしたが、1657年ころ、は
じめて村川家が松島へ渡海するようになった後、同島への渡海をめぐって大谷
家と利害調整をする必要が生じました。
それを取りもったのが旗本、阿部四郎五郎ですが、同時にかれは松島渡海
に関して老中の「御内意」を得たようでした。これをふくらませて川上健三氏
は「松島渡海免許」なるものを創造したようですが、池内氏はこれに疑問を呈
しました。
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三代目大谷九右衛門は松島拝領と渡海について述べるものの、「寛永初年
竹島渡海免許」のごとき文書の存在については言及しない。
また、寛文6(1666)年、大谷船が朝鮮に漂着して対馬藩による所持品検査
がなされた際、「竹島渡海免許」は見いだされたが「松島渡海免許」なるもの
は見当たらない。(川上説の、半月城注)発行からわずか10年を隔てない時
期に、大谷船はなぜゆえに免許を携行しなかったのだろうか(注2)。
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もし「松島渡海免許」が存在するなら大谷船はそれを当然携行すべきなの
に、それがなかったということは最初から存在しなかったと考えるのが妥当で
す。それを池内氏は文献考察からも上のような論理を組み立て、こう結論づけ
ました。
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以上を要するに、「松島渡海免許」なるものは存在しないのである。万治
元年~寛文の交に現れた事態は新たな渡海免許発行ではなく、渡海をめぐる大
谷・村川両家の利害調整に過ぎなかった。
寛文六年(1666)、竹島渡海の帰りに漂流した大谷船が「寛永初年竹島渡海
免許」の写のみを携行し、松島渡海免許を携行しなかったのは蓋し当然であっ
た。
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松島渡海に際して免許が出されず、老中の「御内意」で済まされたのは、
松島は「竹嶋渡海筋」にあたり、同島に対する認識が「竹嶋近所之小嶋」とか
「竹嶋之内松嶋」というもの、すなわち松島は竹島の属島と理解されたためだ
ったと思われます。
また、実際に松島渡海も竹島への渡航がてらになされたようで、竹島あっ
ての松島だったようでした。こうした属島意識のゆえに、幕府が竹島(鬱陵
島)放棄の際、外交書簡で松島についてふれなかったのにもかかわらず、のち
の明治政府が竹島(鬱陵島)と同時に松島(竹島=独島)までも版図外とした
のではないかと思われます。


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1 件のコメント:

  1. ・維新政府、松島をハント外とはしていません。”ほか1島”を関係なし。アルゴゴート島(架空)と言われているようです。

    ・江戸幕府も”元禄竹島1件争かい”の折、あくまで磯竹島渡海禁止で結実であり、松島はふきめい。→以前のママ。

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