http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%BF%9D%E5%9D%82%E7%A5%90%E4%BA%8C_%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6
太政官指令文研究
1877年の太政官指令文が「竹島(現在の鬱陵島)外一島」を「日本の版図外」としたことに関して、太政官指令文の外一島に関する内容を分析した。太政官指令文は、まず「外一島」は松島であるとし、松島は周囲が約30町(約3.3km)で竹や樹木が無く、魚と獣(アシカ)が取れるとしている。彼はこの点を上げ、この文書の中の「外一島」とは松島、すなわち現在の竹島(独島)であり、結局太政官が現在の竹島(独島)を朝鮮領土と認定したと主張する。
さらに太政官指令文には、松島(現在の竹島)は「隠岐から竹島(鬱陵島)に行くとき、同一航路上にあり、隠岐から約80里(地上の距離では約320km、しかし、後述のように彼は当時海上の距離としての里は現在の海里に近かったとしている)の距離である」と記されている文章を指摘しながら、17世紀以来日本人たちは多くの文書で隠岐と松島の距離を約70-80里と記してきたという文献的事実と、里を海里と理解した場合、80里は約148kmとなり実際の隠岐~竹島(独島)間の距離157kmに近くなることなどを指摘しながら、距離的にも「外一島(松島)」は現在の竹島(独島)であると主張する。
(明治政府は1872年の時点で水路部により海上の1里を正確な1海里(=1.852km)とすることを決定しているが、保坂はその後の1877年のこの公的指令文の里も海里(浬)と解している。1905年1月28日に古来の松島を竹島と命名して島根県に編入することを決定した閣議決定文書には、隠岐と現在の竹島の距離を85浬<海里>と正確に書いている。)[7]
保坂は、太政官指令文の「外一島」が現在の竹島(独島)であることは、指令文に添付された地図である「磯竹島略図」が金沢教会の漆崎牧師によって発見・公開され、より明確になったとしている。(指令文添付の「磯竹島略図」は国立公文書館に保存されているもので、以前より研究者のネットで公開されている。)
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