2013年2月17日日曜日

フランス ダングビル図


独島学会 独島物語








「独島韓国領をフランスが認めた」という新聞記事 2008年頃






独島表記した 18世紀 仏指導公開
連合ニュース |記事入力 2008.09.11 14:26

(高揚=連合ニュース) 独島が我が国の領土なのを立証する 276年になったフランスの古地図がまた発見されて関心を集めている.

京畿道高陽市タンヒョン洞の曹渓宗ウォンカク寺主旨である定刻お坊さん(50)は 11日 1732年フランスの地理学者である党費を(J.B.B.D'Anville)が製作した中国前途を手に入れて所蔵していると原本を公開した.


長さ 78.5cm,幅 51cmであるこの指導には我が国と中国,日本,ロシアが一緒に描かれているのに独島が当時于山国(独島の昔の地名)の中国式発音(Tchian-chan-tao)で鬱陵島(Fan-ling-tao)とともに東海岸すぐ側に明確に表示されている.



エンコリ掲示板
276年になったフランスの古地図が発見された. | 伝統 160|0
92924| gfbicia | 2008.09.11 15:54:11


独島が大韓民国領土なのを立証する 276年になったフランスの古地図が発見された.

曹渓宗ウォンカク寺(高陽市タンヒョン洞) 主旨定刻お坊さん(50)は 11日 "1732年フランスの地理学者である党費を(J.B.B.D'Anville)が製作した中国前途を手に入れて所蔵している"と原本を公開した.

長さ 78.5cm, 幅 51cmであるこの指導には我が国と中国, 日本, ロシアが一緒に描かれているのに独島が当時于山国(独島の昔の地名)の中国式発音(Tchian-chan-tao)で鬱陵島(Fan-ling-tao)とともに東海岸すぐ側に表示されている.

また中国及びロシアとの国境線もくっきり現われて満洲, 間島, ノックドンも(鹿屯島)の領土権問題を扱うのに重要な資料になると定刻お坊さんは説明した.

指導には我が国が高麗国(Kaoli Koue), コリア王国(Royaume de Coree), 朝鮮(Tchao-Sien) などと呼ばれていると書かれている.

同時に京畿道(King-Ki)を含めて全羅道(Tcuen lo), 忠清道(Tchu Cin), 慶尚道(Kin Chan), 黄海道(Hoang-Hai), 江原道(Kiang-Yuen), 平安道(Ping-Ngan), 咸境道(Hien-King) など朝鮮 8度の境界を明確に現わして高揚(高陽 Cao-yang), ヤンピョン(楊平 Yong haing) など詳細地域を表記しながら韓国地名を充実に引用している.

独島が私たちの領土に表示された西洋の古地図は 2005年 5月慶煕大水原キャンパスギムヒェゾング碩座教授がヒェゾングバックムルグァン展示会を通じて公開したことで 1737年ダングビルが製作した朝鮮王国前も, 釜山で公開された 1735年ダングビルが製作した朝鮮王国前もなどがある.

定刻お坊さんは "この指導は西洋で製作された古地図の中独島を私たちの領土で表記したことでは先立って公開されたより 3年先に進んだこと"と言った.

ダングビルの指導は中国ガングフィゼの命を受けてフランスイエズス会宣教師レジデント(1663?1738)が 1708年から 1716年まで中国全域を測量して作成した 'ファングヨゾンラムも'を土台で製作したことと知られている.


2013年2月4日月曜日

竹島問題研究会中間報告書「杉原レポート」批判



http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf
竹内猛杉原批判


「竹島外一島」の解釈をめぐる問題について

竹島問題研究会中間報告書「杉原レポート」批判

竹 内 猛



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竹内 はじめに


   はじめに

 杉原隆氏は、昨年、本誌第83号に「浅井村士族大屋兼
助外一名の「松島開拓願」について」を発表し、そこで
明治一〇年の「太政官指令」にある「竹島外一島」の解
釈について、右の「松島開拓願」を援用した新しい解釈
を提示された。
 その後、この論文の成果に基づいて島根県の「竹島問
題を考える講座」(第3回・昨年一二月一二日)で講演
し、講演要旨を今春発行の島根県竹島問題研究会『第2
期「竹島問題に関する調査研究」中間報告書』に「研究
レポート(1)明治期における竹島問題・明治10年太政
官指令-竹島外一島之儀八本邦関係無之-をめぐる諸問
題」(以下「杉原レポート」と呼ぶ)として発表された。

 また塚本孝「竹島領有権問題の経緯・第3版」には、
杉原氏の新解釈が、日本の中央では「竹島、松島ともに
欝陵島のことであるとの認識が行われた可能性もある」
ことを示唆したものとして注記されている(国立国会図
書館『調査と情報』(No7012011.2.22 注18)。

 本稿は、主として杉原氏の最新の論文である杉原レ
ポートに拠りながら、同氏の新解釈を批判的に検討した
ものである。

竹内一、問題の所在


一、問題の所在

 今回の杉原レポートが扱っている「竹島外一島」の解
釈をめぐる問題とは、明治一〇(一八七七)年の「太政
官指令」で「竹島外一島之儀八本邦関係無之」とある中
の「竹島外一島」とは、どの島のことを指しているのか
という問題である。

 この「竹島外一島」という表現が最初に使われたのは、
明治九(一八七六)年に島根県から内務省へ提出された
上申書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」(同年一〇
月一六日付)においてである。この表現は、次いで内務
省から太政官へ提出された上申書(明治一〇年三月一七
日付)の表題の中と、それを受けて太政官の事務方(調
査局)が作成した稟議書(同年三月二〇日付)の本文の
中においても使われた(太政官とは、後の内閣に相当す
る当時の国政の最高機関の名称)。

 右の三文書の中で「竹島外一島」の「外一島」につい
て具体的な島名に言及しているのは、最初の島根県の上
申書だけである。後の二文書は、表題や本文の中で「竹
島外一島」という表現を使っているが、その記述内容は
もっぱら「竹島」に関するものであり「外一島」につい
ては何も書かれていない。後述するが「外一島」は、そ
の具体的島名が省略されていることからも推測されるよ
うに存在感が乏しく、そのため担当者の関心を引かな
かったのではないかと想像される。


 「竹島外一島」の一般的解釈

 「竹島外一島」の具体的島名については、最初の島根
県の上申書に添付された付属文書の記述から「竹島」の
方は、江戸時代前期に米子の町人が渡海していた「竹島」、
すなわち朝鮮の鬱陵島(ウルルン島)であることがわか
る。また「外一島」については、島名を直接的に明示し
た記述はないが、やはり同じ島根県の付属文書の中で「竹
島」の説明に続けて「次二一島アリ松島ト呼フ周回三十
町許竹島ト同一線路二在り隠岐ヲ距ル八拾里許」と書か
れていることから「松島」(現在の竹島。韓国名は独島)
であることがわかる...以上のような解釈が「竹島外一
島」についての今日の一般的解釈といえるであろう。

竹内 杉原レポートの「一島説」的解釈について


 杉原レポートの「一島説」的解釈について

 一方今回の杉原レポートでは、右記したような一般的
解釈に対して、本誌掲載の杉原論文が紹介している明治
一四(一八八一)年の「松島開墾願」に関する一連の公
文書を使って新たな「竹島外一島」解釈を試みている。
しかし筆者の私見では、杉原レポートが今回採用してい
る解釈の方法には歴史学の研究方法から考えて問題があ
り、またその結論も納得しがたいと評さざるを得ないも
のである。

 以下においては、最初に杉原レポートの新しい解釈の
問題点を指摘し、その後に節を改めてより具体的な検討
を行っていくことにしたい。

 まず杉原レポートでは、「はじめに」の中で「竹島外
一島」の解釈をめぐる問題について次のように説明して
いる。

 A「・・・「竹島外一島之儀八本邦関係無之」の「竹島外
  一島」は江戸時代の竹島(鬱陵島)と松島(現在の
  竹島)のことか、竹島とか松島と呼ばれる鬱陵島を
  意味するかの問題である」(前掲・中間報告書、p11。
  傍線は引用者)

 普通の日本語では「竹島外一島」は〈「竹島」とその
ほかの「一島」〉すなわち二つの島があるという解釈に
なると思うが、杉原氏は、右に引用した傍線部において
「竹島とか松島と呼ばれる鬱陵島」という解釈もあると
している。
 後者の説は、端的に言えば「竹島外一島」が二島では
なく鬱陵島という一つの島を指していると解釈する説で
あるが、そのような解釈(ここでは「一島説」と呼んで
おく)は、普通の日本語の解釈とはいえず、やや大げさ
な言い方になるが、史料解釈の問題以前の、日本語能力
(理解力)が問われかねない解釈と評すべきものであろう。

 これに関して今回の杉原レポートでは、その「一島説」
が解釈として成り立つと認めているだけでなく、次に引
用する杉原レポートの各節の結論部分B、Cにおいては、
氏自身が「一島説」を説得力のある有力な解釈と考えて
いることを示唆しているのである。

 B「・・後述するように当時『竹島、松島則鬱陵島』
  との認識が行われていたので、「竹島外一島」の外
  一島が松島であるとしても、その松島は江戸時代の
  松島(現在の竹島)ではなく鬱陵島であり、太政官
  は鬱陵島を日本に関係ないと指令したものと考える
  方が説得力がある」(杉原レポート「②太政官指令
  「竹島外一島之儀八本邦関係無之」について」の結
  論部分。前掲・中間報告書、p14。傍線は引用者、
  次も同じ)

 C「・・竹島外一島と松島は同じことを意味し開墾出
  来る松島は鬱陵島でなければならないことになる。
  この明治14年の・・「松島開墾願」は明治9年の島
  根県が提出した伺いの「竹島外一島」なる用語は開
  墾できる松島すなわち嗇陵島であったこと、明治10
  年の太政官指令も同様であったことを明確にしたこ
  とで貴重な文書である」(同右「③明治14年『日本
  海内松島開墾之儀二付伺』について」の結論部。同
  右、p16

 このB、Cの引用部分には、今回の杉原レポートの問
題点が凝縮された形で現れていると思われるので次節以
降で詳しく検討するが、とりあえず次の点を指摘してお
きたい。

 まずBの傍線部に関して。ここで杉原氏は「外一島」
は「松島」であるという一般的な解釈をとるように見せ
ながら、しかしその場合の「松島は江戸時代の松島・・
ではなく鬱陵島」であり、そのように「考える方が説得
力がある」として「一島説」の方に軍配をあげている。

 さらにCにおいては、いっそう直截的に「一島説」を打
ち出している格好である。

 またB、C共に、明治一四年の文書にある「松島」を
明治九、一〇年の文書にある「竹島外一島」の解釈に遡
らせて適用することによって「一島説」を立証する方法
をとっているが、これは歴史学の研究方法としての基本
を逸脱した不適切な史料の扱い方といわざるを得ない。

竹内二、「竹島外一島」の解釈について


二、「竹島外一島」の解釈について

 ここでは、杉原レポートの①が扱っている明治九年の
島根県から内務省への上申書「日本海内竹島外一島地籍
編纂方伺」の内容を詳しく検討することで「一島説」が
成り立つか否かを史料実証的に検討しておきたい。

 そもそも明治一〇年の「太政官指令」が出されること
になったのは、明治政府(具体的には内務省)が全国の
地籍編成事業を行う過程で、江戸時代に「竹島」として
知られていた日本海の島のことを知り、その帰属を確認
すべく島根県に照会したことが発端であった。
 このとき内務省から島根県宛てに出された照会の文書
(明治九年一〇月五日付)の中には「従来竹島ト相唱候
孤烏有之・・」と「竹島」のことだけが書かれていたが、
これに回答した島根県から内務省宛ての上申書(明治九
年一〇月一六日付)の表題において初めて「日本海内竹
島外一島地籍編纂方伺」という形で「外一島」の表現が
使われたのである。

 「竹島外一島」という表現は、これ以降内務省や太政
官といった上位機関でも踏襲されていくが、「外一島」
について具体的に言及しているのは、最初の島根県の上
申書だけである。
 たとえば、杉原レポートの②で詳細に紹介・検討され
ているように、内務省が独自に調査し太政官への提出資
料として追加したのは、旧対馬藩の「竹嶋紀事」から抜
粋した「元禄竹島一件」に関連する四文書だけであり、
内務省が「外一島」について独自に文書を作成すること
はなかったのである(太政官への上申書は、明治一〇年
三月一七日付)。

 またその上位機関の太政官では、独自の調査はせずに
内務省の上申書の内容をそのまま受け入れた稟議書を作
成し、それを太政官において決裁して「太政官指令」が
出されている(太政官の指令は明治一〇年三月二九日付、
 内務省から島根県への指令、すなわち同県の「伺」に対
する回答は、同年四月九日付)。したがって「外一島」
について具体的に検討するには、明治九年の島根県の上
申書による他ないのである。

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竹内 島根県の上申書の内容



 島根県の上申書の内容

 次に、島根県から内務省に提出された上申書(明治九
年一〇月一六日付の「伺」)の内容について詳しく見て
みると、この文書は、全体が三つの文書と一枚の地図か
ら成っている。
 ア、上申書の本文(用籤1枚)。
 イ、アの中に「別紙乙第二十八号」と書かれている内
   務省から島根県への照会文書の写(用便1枚)。
 ウ、アの中で「別紙原由之大略」として参照が指示さ
   れている「竹島」渡海について説明した文書(用
   便3枚)。
 エ、アの中で「図面」として参照が指示されている「磯
   竹島略図」と題された地図(1枚)。

 この島根県の上申書は、この後内務省と太政官で作成
された文書類と共に島根県総務部総務課編『竹島関係資
料集・第二集』に翻刻されており、またその影印(写真
版)を内藤正中・朴炳渉「竹島=独島論争」で見ること
ができるが、それらの文書中に「竹島外一島」の「外一
島」がどの島を指すのかについて直接島言及した記述は
見当たらない。この島根県の上申書の記述の中で唯一「外
一島」に該当しそうな島は、次に見るようにウの中の「竹
島」渡海について説明した文章の中に出てくる「松島」
だけであり、その他には見当たらないのである。ウの文
の書き出し部分には最初に「竹島」のことが書かれてい
るので、そこを含めて改めて引用しておきたい。

 「磯竹島一ニ竹島ト称ス、隠岐国ノ乾位一百二拾里
許二在リ、周回凡十里許、山峻嶮ニシテ平地少シ、・・
(中略)・・次二一島在り松島ト呼フ、周回三十町許、
竹島ト同一線路二在リ、隠岐ヲ距ル八拾里許、樹竹
稀ナリ亦魚獣ヲ産ス」(傍線と読点は引用者)

 ウの文書のうち、この引用箇所を含む「竹島」「松島」
の地勢・産物等を説明した部分は、一枚の公文書の用能
(縦書き二六行、二つ折りにすると左右一三行ずつにな
るように罫線が引いてある)の一五行分を使って書かれ
ているが「松島」に関する記述はその中の三行分に過ぎ
ず、有り体に言えば付け足しといった感じである。
 またその記述の順序は、まず「竹島」のことが詳しく
説明され、その後に「松島」のことが手短に書かれてい
る。つまり隠岐(日本本土側)から見てより遠い「竹島」
のことが先に説明され、その後で「松島」のことを記し
ているのである。
 こうした二島の記述の順番やその説明内容の精粗と
いった差は、文書の表題で使われている「竹島」(主役)
と「外一島」(脇役)という表現に対応したものといえ
るであろう。
 またそのことは、この島根県の上申書の付属地図「磯
竹島略図」によっても裏付けられている。この地図を見
れば、これが大きな「竹島」と小さな「松島」の二島の
ことを示すために描かれたことは一目瞭然であり、しか
も地図の中に書き込まれた隠岐―「松島」問の距離
(「乾位 八十里許」)は、さきのウの引用箇所に書かれ
ている記述((隠岐ヲ距ル八拾里許)」と正確に対応して
いるのである。
 以上のことから「外一島」が「松島」(現在の竹島、
韓国名・独島。以下「竹島=独島」と表記)を指すこと
は確実であり、ここにはさきに述べた「一島説」のよう
な解釈が成り立つ余地は全くないといえる。
 ところが杉原氏は、本誌掲載の論文や杉原レポートに
おいてこの上申書に即した検討は行っておらず、それで
いながら「竹島外一島については「竹島と松島」か、当
時の鬱陵島の呼称から「竹島とか松島と呼ばれている島」
かは判断できない」{本誌第83号、p21)などと述べて
いるのである。

竹内三、内務省作成の四文書について


三、内務省作成の四文書について

 次に、杉原レポートの②の内容(内務省が作成した四
つの文書を検討したもの)について簡単に触れておきたい。
 まず、杉原氏がこの②の結論部分で「太政官が判断材
料として内務省から受け取った資料が上記の通りである
とすると・・」(中間報告書、p14)としているのは誤
りである。

 内務省から太政官への上申書(「伺」)の本文中に「竹
島所轄之儀二付島根県ヨリ別紙伺出取調候処・・」とあ
るように、太政官への上申書には、内務省で独自に調査
した付属文書(「竹嶋紀事」からの抜粋)の他に、本稿
前節で検討した島根県から内務省への上申書が添えられ
ていたのである。

 島根県が、内務省に上申書を提出する際、発端となっ
た内務省(地理寮)から島根県への照会を筆写して添え
たように、この種の公文書は、関係機関の新たな書類を
追加しつつ判断に必要な書類を漏らさず決裁される機関
まで伝送するのが常であった。そして途中の各機関では、
文書の原本やその写(筆写した文書)を保管し、後日送
られて来るはずの回答・指令やその他の照会・調査等に
備えたのである。

 したがって杉原レポートが「(この内務省の上申書を
受けて)太政官は、鬱陵島が日本に関係ないと指令を出
した可能性が濃厚である」と述べているのは、結論だけ
見れば誤りとは言えないが、そこに至る過程(前提)に
は間違いを含んでいるといえる。ここでは、太政官は島
根県と内務省から上げられてきたすべての書類を総合的
に判断して「竹島外一島」は「本邦関係無之」と結論づ
けたと、考えるべきなのである。

 なお、明治九、一〇年の島根県や内務省の上申書の本
文、それを受けた太政官の稟議書では「竹島」「竹島外
一島」「本島」「該島」などの表現が用いられており、杉
原レポートにある「竹鳥、松島則鬱陵島」(中間報告書、
p14)のような「鬱陵島」を直接名指した(使用した)
表現は使われていない。

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竹内四、「松島開墾願」を援用した解釈について


四、「松島開墾願」を援用した解釈について

 杉原レポートの③が検討の対象としている明治一四年
の「松島開墾願」に関連する一連の文書は、島根県・内
務省・外務省のそれぞれの文書担当者が明治一〇年の
「太政官指令」に関連する文書を引用しながら、新たに
開墾願の出されてきた「松島」(鬱陵島)のことを取り
上げて論じている行政機関の間の照会・回答の文書類で
ある(この史料も前掲の『竹島関係資料集・第二集』に
収載されているが、原典は外交史料館所蔵「朝鮮国蔚陵
島へ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻之儀二付伺 自明治十四年
七月至明治十六年四月」である)。

 この明治一四年の文書類を虚心に読めば、当時の文書
担当者たちが各書で使われている島名について何ら混
乱することなく文書をやり取りしていることがたやすく
見てとれる。彼らは、明治一〇年の「太政官指令」にあ
る「竹島外一島」と明治一四年の「松島開墾願」で使わ
れている「松島」とを的確に弁別して文書を交わしてい
るのである。

竹内 明治一四年の当事者たちの地理的認識


明治一四年の当事者たちの地理的認識

明治一四年の文書の当事者たちが、島名について混
同・混乱することなく議諭できた理由は、次のように考
えられる。

第一の理由は、文書担当者たちが明治一〇年の「太政
官指令」で使われている「竹島外一島」について検討す
る際、具体的な島名が省略されている「外一島」の方に
は何ら関心を持たず、したがって検討もしなかった(と
推察される)からである。
「竹島外一島」における「外一島」という表現は、「外
一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体
的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであ
り、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島
と見なされていたことを示唆している。
これと同じことは、たとえば「大屋兼助外一名」につ
いても言えるであろう。ここで具体的氏名の省かれた「外
一名」は「大屋兼助」と一体的に扱われる、文書の中で
は自己を主張しない存在である。したがって「外一名」
のことは、細かいことを問題にするのでなければとりあ
えず無視して構わない、文書上では「大屋兼助」に従属
する存在といえる。


第二の理由は、明治一四年の時には、この日本海域に
ある二島のことが、島名の沿革や島の特徴を含めて、政
府関係者の間で正確に共通理解されるようになっていた
からである。
その事実は、外務省の北澤正誠「竹島版図所属考」(明
治一四年八月二〇日調製)の中に次のように書かれてい
るのを見れば納得がいくはずである。
「竹島一名ハ磯竹島又松島ト称ス。韓名ハ欝陵島又
芋陵島卜称スル者此ナリ。但其地本邦朝鮮ノ間二在
ルヲ以テ古来紛議両国ノ問二生セシモ、元禄九年二
至り境界判然、復夕異議ナシ。今ヤ我国史及ヒ韓漢
ノ記伝二就キ其源流ヲ究メ、其沿革ヲ詳ニシテ之ヲ
左二論述セントス」(「日本外交文書」第一四巻所収、
p390.句読点は引用者)

北洋正誠は、右の書き出し部分に続く本文の中で同島
の沿革を詳述し、その最後の部分で、明治一〇年に東京
府に提出された「竹島渡海」願書(島根県士族・戸田敬
義提出)およびその前にウラジオストクの貿易事務官を
経由して外務省に提出された「松島渡海」に関する願書
(陸奥の人・武藤平学、下総の人・斎藤七郎兵衛などが
提議)等の請願を受けて政府内部で島名をめぐる議論
(「紛議」)が起きたこと、そしてそれが最終的には明治
一一年と一三年の海軍・天城艦による現地での実見測量
によって事実確認がなされた結果議論が収拾されたこと
を記し「由此観之ハ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル
所ノ竹島ニシテ古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」(同
上書、p394。ルビは引用者)と結論を述べているので
ある。

竹内 史料に即して検討する


 史料に即して検討する

 ところで明治一四年の「松島開墾願」に関連する一連
の文書が作成されたのは、本誌掲載の杉原論文が紹介し
ているように、大倉組社員・片山常雄の伝手で浜田から
「松島」(鬱陵島)に渡航した大屋兼助が、島根県宛てに
「松島開墾願」を提出したことに端を発している。
 このとき作成された一連の文書を、時間の流れに従っ
て整理しておくと次のようになる。

 ア 島根県より内務省・農商務省への照会
             (明治一四年一一月一二日付)
    *表題「日本海内松島開墾之儀二付伺」(イの「別紙乙号」)
 イ 内務省より外務省への照会(明治一四年一一月二九日付)
    *付属文書・別紙甲号(明治一〇年三月の内務省から太政
     官への上申書および太政官指令を筆写したもの)
       ・別紙乙号(島根県からの照会。右のア)
 ウ 外務省より内務省への回答(明治一四年一二月一日付)
   *公信局公第二六五一号(明治一四年一一月三〇日起草)
 エ 内務省より島根県への指令(明治一五年一月三一日付)
   *指令内容は島根県「県治要領」(明治一四、一五年)に記載。

 最初のアは「日本海内松島開墾之儀二付伺」という表
題になっているが、開墾願を県宛てに提出した大屋兼助
が海軍の便船で「松島」に渡航していることから、ここ
にいう「松島」が鬱陵島を指していることは確実である
(当時の海軍や外務省は、欧米から輸入された海図、地
図を使っていた関係からと想像されるが「松島」のこと
を欧文名「ダジュレー島」、朝鮮名「鬱陵島」に対応す
る日本名と認識していた)。
 また島根県の文書担当者(署名は島根県令・境二郎)
が既述した明治九年の島根県の上申書にも関与していた
人物であることを考えると、彼がこのたび開墾願の出さ
れた「松島」と明治一〇年四月の内務省から島根県への
指令(その元は「太政官指令」)に書かれている「外一島」
である「松島」(現在の竹島=独島)とを混同したり「竹
島外一島」を一つの島と思い込んだりなどしていないこ
とも確実といえるであろう。
 したがってアの文書上で、「松島開墾願」「書面竹島外
一島」「該島」「該地」などの語句が混在していても、そ
れによつて島根県の担当者が混乱することはなかったはずである。

 次のイ(内務省文香)の核心部分は、以下のように書
かれている。
  「日本海二在ル竹島松島之義ハ、別紙甲号之通、去
  明治十年中本邦関係無之事二伺定相成、示来然ク相
  心得居候処、今般島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次
  第ニヨレハ、大倉組社員ノ者航到伐木候趣二相聞候、
  就テハ該島之義二付近頃朝鮮国卜何歎談判約束等二
  相渉リタル義ニテモ有之候哉、一応致承知度、此段
  及御照会候也」(読点は引用者。以下も同じ)

 この引用の最初に出てくる「竹島松島」は「竹鳥外一
島」を言い換えた表現と考えられるが、そのことは、こ
の内務省の文書で参照が指示されている付属文書「別紙
甲号」の「日本海内竹島外一馬地籍編纂方伺」と書かれ
ている表題の下方に「外一島ハ松嶋ナリ」と割注が付け
られていることから推察されることである。
 この注記は、内務省の文書担当者(署名は内務権大書
記官・西村捨三)が、明治一〇年の内務省文書を参考の
ため筆写した際に書き加えたものと考えられる。

 既述したように「外一島」が「松島」とわかる文書は、
明治九年に島根県から内務省に提出された上申書の付属
文書(と付属地図)だけなので、この内務省の文書担当
者(西村書記官)は、島根県の上申書まで遡及して「外
一島」について調べ、それが「松島」(現在の竹島=独島)
である判断して、そのことを右のように注記したもので
あろう。

 この文書を虚心に読めば、ここでも担当者が二つの「松
鳥」を混同することなく適切に扱っていることは容易に
見て取れるはずである。次のウを含めた明治一四年の三
文書は、いずれも鬱陵島のことに関心を集中させて論じ
ており、「外一島」(竹島=独島)は検討の対象になって
いないのである。

 ウの外務省文書の核心部分は次のように書かれている。
  「朝鮮国蔚陵島即竹島松高之儀二付御聞合之趣閲悉
 候、右者先般該島江我人民ノ渡航漁採伐木スル者有
 之趣ニテ、朝鮮政府より外務卿江照会有之候付査究
 候処、果シテ右様之事実有之趣二付、既二撒帰為致
 (以下略)」

 この文書も、先の内務省からの照会(イ)に対する回
答であるために「竹島松島」という表現を使っていると
推察されるが、同文書の中で〈先般その島(「該鳥」)に
日本人が渡航し漁採・伐木しているとして朝鮮政府から
外務卿(外務大臣)に照会があり、調査したところ事実
だったので既に引き揚げさせた・・〉というのだから、
ここでも外務省担当者が問題にしているのは「朝鮮国蔚
陵鳥」のことであり、それが文書上で「竹島松島」と表
記されていても、二つの「松島」が混同や混乱を引き起
こしていないことは一読して明らかであろう。

 最後のエ(島根県「県治要領」)には、内務・農商務
両省から島根県への指令が次のように書留められている。
  「書面松島ノ義ハ、最前指令ノ通本邦関係無之義ト
  可相心得、依テ開墾願ノ義ハ許可スヘキ筋二無之候
  事、但本件ハ両名宛二不及候事」(読点は引用者)

 「最前指令ノ通・・」とあるのは明治一〇年の「太政
官指令」を指しているが、既にその指令で「竹鳥外一島」
が日本とは無関係(「本邦関係無之」)とされ、また明治
一四年の時点では「竹島」が「松島」(=「朝鮮国蔚陵島」)
の別称の一つであることがわかっていたのだから、島根
県からの「松島開墾願」を日本政府が不許可としたのは
当然といえる。

竹内 小  括


 小 括

 ここまで杉原レポートの①~③の議論に即した批判的
検討と筆者の見解の提示を行ってきたが、今回の杉原レ
ポートで示されている明治一〇年「太政官指令」に関す
る杉原氏の主張には、次の二つの問題があると考える。

 第一の問題点は、杉原氏が「竹島外一島」の解釈の基
礎となる明治九年の島根県の上申書について、この史料
に即した氏自身の解釈を提示していないことである。明
治一〇年「太政官指令」にある「竹島外一島」を当時の
太政官がどう認識していたかを知るには、本稿第二節で
述べたように、最初に「竹島外一島」という表現を使っ
た島根県の上申書に拠らなければならないが、杉原氏は
それを行っていないのである。

 筆者の解釈は本稿第二節に記したが、島根県の上申書
に基づいて「竹島外一島」を解釈すれば「竹島」と「松
島」というそれぞれの島名をもった二つの島になり、そ
の他の解釈はあり得ないというのが筆者の見解である。
そこには、本稿で「一島説」と呼んだ解釈が成り立つ余
地はないと考える。

 杉原氏の主張の第二の問題点は、例えば本誌掲載の論
文に見られる、次のような史料の扱い方である(本誌第
83号、p23)。
  「明治十年の時の『竹島外一島』と記された時から
  松島は鬱陵島のことと明治政府は認識していたので
  ある」

 右の箇所で杉原氏は、太政官が明治一〇年に認識でき
た「松島」(「外一島」)とその太政官が知り得なかった(比
喩的にいうなら、タイムマシンを使わなければ参照不可
能な)明治一四年の文書の「松島」(「朝鮮国蔚陵島」)
とを同列に置いて論じ、しかも明治一〇年の時には明確
に区別されていた「竹島外一島」(2島)を「松島」と
いう島名を媒介にすることで「一島説」的に解釈しよう
としているのである。
 しかしこれまで繰り返し述べてきたように、名前は同
じ「松島」であっても、明治一〇年の文書にある「松島」
(竹島=独島)と明治一四年の「松島」(鬱陵鳥)とは全
く別の島である。杉原氏のこのような史料の扱い方や論
じ方は、歴史学の基本を逸脱した不適切なものといわざ
るを得ないと考える。


〔追記〕境二郎と「竹島」渡海禁止令

未完

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