2013年2月4日月曜日

竹内二、「竹島外一島」の解釈について


二、「竹島外一島」の解釈について

 ここでは、杉原レポートの①が扱っている明治九年の
島根県から内務省への上申書「日本海内竹島外一島地籍
編纂方伺」の内容を詳しく検討することで「一島説」が
成り立つか否かを史料実証的に検討しておきたい。

 そもそも明治一〇年の「太政官指令」が出されること
になったのは、明治政府(具体的には内務省)が全国の
地籍編成事業を行う過程で、江戸時代に「竹島」として
知られていた日本海の島のことを知り、その帰属を確認
すべく島根県に照会したことが発端であった。
 このとき内務省から島根県宛てに出された照会の文書
(明治九年一〇月五日付)の中には「従来竹島ト相唱候
孤烏有之・・」と「竹島」のことだけが書かれていたが、
これに回答した島根県から内務省宛ての上申書(明治九
年一〇月一六日付)の表題において初めて「日本海内竹
島外一島地籍編纂方伺」という形で「外一島」の表現が
使われたのである。

 「竹島外一島」という表現は、これ以降内務省や太政
官といった上位機関でも踏襲されていくが、「外一島」
について具体的に言及しているのは、最初の島根県の上
申書だけである。
 たとえば、杉原レポートの②で詳細に紹介・検討され
ているように、内務省が独自に調査し太政官への提出資
料として追加したのは、旧対馬藩の「竹嶋紀事」から抜
粋した「元禄竹島一件」に関連する四文書だけであり、
内務省が「外一島」について独自に文書を作成すること
はなかったのである(太政官への上申書は、明治一〇年
三月一七日付)。

 またその上位機関の太政官では、独自の調査はせずに
内務省の上申書の内容をそのまま受け入れた稟議書を作
成し、それを太政官において決裁して「太政官指令」が
出されている(太政官の指令は明治一〇年三月二九日付、
 内務省から島根県への指令、すなわち同県の「伺」に対
する回答は、同年四月九日付)。したがって「外一島」
について具体的に検討するには、明治九年の島根県の上
申書による他ないのである。

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