2013年2月4日月曜日

竹内 杉原レポートの「一島説」的解釈について


 杉原レポートの「一島説」的解釈について

 一方今回の杉原レポートでは、右記したような一般的
解釈に対して、本誌掲載の杉原論文が紹介している明治
一四(一八八一)年の「松島開墾願」に関する一連の公
文書を使って新たな「竹島外一島」解釈を試みている。
しかし筆者の私見では、杉原レポートが今回採用してい
る解釈の方法には歴史学の研究方法から考えて問題があ
り、またその結論も納得しがたいと評さざるを得ないも
のである。

 以下においては、最初に杉原レポートの新しい解釈の
問題点を指摘し、その後に節を改めてより具体的な検討
を行っていくことにしたい。

 まず杉原レポートでは、「はじめに」の中で「竹島外
一島」の解釈をめぐる問題について次のように説明して
いる。

 A「・・・「竹島外一島之儀八本邦関係無之」の「竹島外
  一島」は江戸時代の竹島(鬱陵島)と松島(現在の
  竹島)のことか、竹島とか松島と呼ばれる鬱陵島を
  意味するかの問題である」(前掲・中間報告書、p11。
  傍線は引用者)

 普通の日本語では「竹島外一島」は〈「竹島」とその
ほかの「一島」〉すなわち二つの島があるという解釈に
なると思うが、杉原氏は、右に引用した傍線部において
「竹島とか松島と呼ばれる鬱陵島」という解釈もあると
している。
 後者の説は、端的に言えば「竹島外一島」が二島では
なく鬱陵島という一つの島を指していると解釈する説で
あるが、そのような解釈(ここでは「一島説」と呼んで
おく)は、普通の日本語の解釈とはいえず、やや大げさ
な言い方になるが、史料解釈の問題以前の、日本語能力
(理解力)が問われかねない解釈と評すべきものであろう。

 これに関して今回の杉原レポートでは、その「一島説」
が解釈として成り立つと認めているだけでなく、次に引
用する杉原レポートの各節の結論部分B、Cにおいては、
氏自身が「一島説」を説得力のある有力な解釈と考えて
いることを示唆しているのである。

 B「・・後述するように当時『竹島、松島則鬱陵島』
  との認識が行われていたので、「竹島外一島」の外
  一島が松島であるとしても、その松島は江戸時代の
  松島(現在の竹島)ではなく鬱陵島であり、太政官
  は鬱陵島を日本に関係ないと指令したものと考える
  方が説得力がある」(杉原レポート「②太政官指令
  「竹島外一島之儀八本邦関係無之」について」の結
  論部分。前掲・中間報告書、p14。傍線は引用者、
  次も同じ)

 C「・・竹島外一島と松島は同じことを意味し開墾出
  来る松島は鬱陵島でなければならないことになる。
  この明治14年の・・「松島開墾願」は明治9年の島
  根県が提出した伺いの「竹島外一島」なる用語は開
  墾できる松島すなわち嗇陵島であったこと、明治10
  年の太政官指令も同様であったことを明確にしたこ
  とで貴重な文書である」(同右「③明治14年『日本
  海内松島開墾之儀二付伺』について」の結論部。同
  右、p16

 このB、Cの引用部分には、今回の杉原レポートの問
題点が凝縮された形で現れていると思われるので次節以
降で詳しく検討するが、とりあえず次の点を指摘してお
きたい。

 まずBの傍線部に関して。ここで杉原氏は「外一島」
は「松島」であるという一般的な解釈をとるように見せ
ながら、しかしその場合の「松島は江戸時代の松島・・
ではなく鬱陵島」であり、そのように「考える方が説得
力がある」として「一島説」の方に軍配をあげている。

 さらにCにおいては、いっそう直截的に「一島説」を打
ち出している格好である。

 またB、C共に、明治一四年の文書にある「松島」を
明治九、一〇年の文書にある「竹島外一島」の解釈に遡
らせて適用することによって「一島説」を立証する方法
をとっているが、これは歴史学の研究方法としての基本
を逸脱した不適切な史料の扱い方といわざるを得ない。

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