2013年2月4日月曜日

竹内 史料に即して検討する


 史料に即して検討する

 ところで明治一四年の「松島開墾願」に関連する一連
の文書が作成されたのは、本誌掲載の杉原論文が紹介し
ているように、大倉組社員・片山常雄の伝手で浜田から
「松島」(鬱陵島)に渡航した大屋兼助が、島根県宛てに
「松島開墾願」を提出したことに端を発している。
 このとき作成された一連の文書を、時間の流れに従っ
て整理しておくと次のようになる。

 ア 島根県より内務省・農商務省への照会
             (明治一四年一一月一二日付)
    *表題「日本海内松島開墾之儀二付伺」(イの「別紙乙号」)
 イ 内務省より外務省への照会(明治一四年一一月二九日付)
    *付属文書・別紙甲号(明治一〇年三月の内務省から太政
     官への上申書および太政官指令を筆写したもの)
       ・別紙乙号(島根県からの照会。右のア)
 ウ 外務省より内務省への回答(明治一四年一二月一日付)
   *公信局公第二六五一号(明治一四年一一月三〇日起草)
 エ 内務省より島根県への指令(明治一五年一月三一日付)
   *指令内容は島根県「県治要領」(明治一四、一五年)に記載。

 最初のアは「日本海内松島開墾之儀二付伺」という表
題になっているが、開墾願を県宛てに提出した大屋兼助
が海軍の便船で「松島」に渡航していることから、ここ
にいう「松島」が鬱陵島を指していることは確実である
(当時の海軍や外務省は、欧米から輸入された海図、地
図を使っていた関係からと想像されるが「松島」のこと
を欧文名「ダジュレー島」、朝鮮名「鬱陵島」に対応す
る日本名と認識していた)。
 また島根県の文書担当者(署名は島根県令・境二郎)
が既述した明治九年の島根県の上申書にも関与していた
人物であることを考えると、彼がこのたび開墾願の出さ
れた「松島」と明治一〇年四月の内務省から島根県への
指令(その元は「太政官指令」)に書かれている「外一島」
である「松島」(現在の竹島=独島)とを混同したり「竹
島外一島」を一つの島と思い込んだりなどしていないこ
とも確実といえるであろう。
 したがってアの文書上で、「松島開墾願」「書面竹島外
一島」「該島」「該地」などの語句が混在していても、そ
れによつて島根県の担当者が混乱することはなかったはずである。

 次のイ(内務省文香)の核心部分は、以下のように書
かれている。
  「日本海二在ル竹島松島之義ハ、別紙甲号之通、去
  明治十年中本邦関係無之事二伺定相成、示来然ク相
  心得居候処、今般島根県ヨリ別紙乙号之通申出候次
  第ニヨレハ、大倉組社員ノ者航到伐木候趣二相聞候、
  就テハ該島之義二付近頃朝鮮国卜何歎談判約束等二
  相渉リタル義ニテモ有之候哉、一応致承知度、此段
  及御照会候也」(読点は引用者。以下も同じ)

 この引用の最初に出てくる「竹島松島」は「竹鳥外一
島」を言い換えた表現と考えられるが、そのことは、こ
の内務省の文書で参照が指示されている付属文書「別紙
甲号」の「日本海内竹島外一馬地籍編纂方伺」と書かれ
ている表題の下方に「外一島ハ松嶋ナリ」と割注が付け
られていることから推察されることである。
 この注記は、内務省の文書担当者(署名は内務権大書
記官・西村捨三)が、明治一〇年の内務省文書を参考の
ため筆写した際に書き加えたものと考えられる。

 既述したように「外一島」が「松島」とわかる文書は、
明治九年に島根県から内務省に提出された上申書の付属
文書(と付属地図)だけなので、この内務省の文書担当
者(西村書記官)は、島根県の上申書まで遡及して「外
一島」について調べ、それが「松島」(現在の竹島=独島)
である判断して、そのことを右のように注記したもので
あろう。

 この文書を虚心に読めば、ここでも担当者が二つの「松
鳥」を混同することなく適切に扱っていることは容易に
見て取れるはずである。次のウを含めた明治一四年の三
文書は、いずれも鬱陵島のことに関心を集中させて論じ
ており、「外一島」(竹島=独島)は検討の対象になって
いないのである。

 ウの外務省文書の核心部分は次のように書かれている。
  「朝鮮国蔚陵島即竹島松高之儀二付御聞合之趣閲悉
 候、右者先般該島江我人民ノ渡航漁採伐木スル者有
 之趣ニテ、朝鮮政府より外務卿江照会有之候付査究
 候処、果シテ右様之事実有之趣二付、既二撒帰為致
 (以下略)」

 この文書も、先の内務省からの照会(イ)に対する回
答であるために「竹島松島」という表現を使っていると
推察されるが、同文書の中で〈先般その島(「該鳥」)に
日本人が渡航し漁採・伐木しているとして朝鮮政府から
外務卿(外務大臣)に照会があり、調査したところ事実
だったので既に引き揚げさせた・・〉というのだから、
ここでも外務省担当者が問題にしているのは「朝鮮国蔚
陵鳥」のことであり、それが文書上で「竹島松島」と表
記されていても、二つの「松島」が混同や混乱を引き起
こしていないことは一読して明らかであろう。

 最後のエ(島根県「県治要領」)には、内務・農商務
両省から島根県への指令が次のように書留められている。
  「書面松島ノ義ハ、最前指令ノ通本邦関係無之義ト
  可相心得、依テ開墾願ノ義ハ許可スヘキ筋二無之候
  事、但本件ハ両名宛二不及候事」(読点は引用者)

 「最前指令ノ通・・」とあるのは明治一〇年の「太政
官指令」を指しているが、既にその指令で「竹鳥外一島」
が日本とは無関係(「本邦関係無之」)とされ、また明治
一四年の時点では「竹島」が「松島」(=「朝鮮国蔚陵島」)
の別称の一つであることがわかっていたのだから、島根
県からの「松島開墾願」を日本政府が不許可としたのは
当然といえる。

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