2013年2月4日月曜日

竹内 明治一四年の当事者たちの地理的認識


明治一四年の当事者たちの地理的認識

明治一四年の文書の当事者たちが、島名について混
同・混乱することなく議諭できた理由は、次のように考
えられる。

第一の理由は、文書担当者たちが明治一〇年の「太政
官指令」で使われている「竹島外一島」について検討す
る際、具体的な島名が省略されている「外一島」の方に
は何ら関心を持たず、したがって検討もしなかった(と
推察される)からである。
「竹島外一島」における「外一島」という表現は、「外
一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体
的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであ
り、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島
と見なされていたことを示唆している。
これと同じことは、たとえば「大屋兼助外一名」につ
いても言えるであろう。ここで具体的氏名の省かれた「外
一名」は「大屋兼助」と一体的に扱われる、文書の中で
は自己を主張しない存在である。したがって「外一名」
のことは、細かいことを問題にするのでなければとりあ
えず無視して構わない、文書上では「大屋兼助」に従属
する存在といえる。


第二の理由は、明治一四年の時には、この日本海域に
ある二島のことが、島名の沿革や島の特徴を含めて、政
府関係者の間で正確に共通理解されるようになっていた
からである。
その事実は、外務省の北澤正誠「竹島版図所属考」(明
治一四年八月二〇日調製)の中に次のように書かれてい
るのを見れば納得がいくはずである。
「竹島一名ハ磯竹島又松島ト称ス。韓名ハ欝陵島又
芋陵島卜称スル者此ナリ。但其地本邦朝鮮ノ間二在
ルヲ以テ古来紛議両国ノ問二生セシモ、元禄九年二
至り境界判然、復夕異議ナシ。今ヤ我国史及ヒ韓漢
ノ記伝二就キ其源流ヲ究メ、其沿革ヲ詳ニシテ之ヲ
左二論述セントス」(「日本外交文書」第一四巻所収、
p390.句読点は引用者)

北洋正誠は、右の書き出し部分に続く本文の中で同島
の沿革を詳述し、その最後の部分で、明治一〇年に東京
府に提出された「竹島渡海」願書(島根県士族・戸田敬
義提出)およびその前にウラジオストクの貿易事務官を
経由して外務省に提出された「松島渡海」に関する願書
(陸奥の人・武藤平学、下総の人・斎藤七郎兵衛などが
提議)等の請願を受けて政府内部で島名をめぐる議論
(「紛議」)が起きたこと、そしてそれが最終的には明治
一一年と一三年の海軍・天城艦による現地での実見測量
によって事実確認がなされた結果議論が収拾されたこと
を記し「由此観之ハ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル
所ノ竹島ニシテ古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」(同
上書、p394。ルビは引用者)と結論を述べているので
ある。

2 件のコメント:


  1. Chaamieyさん

    > matsuさんが14/1/13 13:50で紹介なさった竹内さん http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf  という人

     竹内猛:竹島問題研究会中間報告書「杉原レポート」批判を http://take8595.blogspot.jp/ にテキストUPしておきました。テキストコピー用にお使いください。

     ここに、次の文章があります。

     第一の理由は、文書担当者たちが明治一〇年の「太政官指令」で使われている「竹島外一島」について検討する際、具体的な島名が省略されている「外一島」の方には何ら関心を持たず、したがって検討もしなかった(と推察される)からである。
     「竹島外一島」における「外一島」という表現は、「外一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであり、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島と見なされていたことを示唆している。
     これと同じことは、たとえば「大屋兼助外一名」についても言えるであろう。ここで具体的氏名の省かれた「外一名」は「大屋兼助」と一体的に扱われる、文書の中では自己を主張しない存在である。したがって「外一名」のことは、細かいことを問題にするのでなければとりあえず無視して構わない、文書上では「大屋兼助」に従属する存在といえる。


     これは、matsuさんが 2/2/13 01:56 で指摘される
      ----------------------------------
    2.内務省は伺いの審査にあたって、・・・竹島(磯竹島)と松島・・・の解釈について疑問をはさんだり、変更したりしたことを示す文書は存在していない。
    3.内務省は伺いの審査にあたって、元禄竹島一件の顛末を記録した対馬藩の文書『竹島紀事』によって判断した。・・・これら4文書の中には、「竹島」「鬱陵島」という文言はあるが、「松島」という文言は一切ない。よって、「松島」については何等の判断もしていないと考えられる。
    4.しかし内務省は・・・太政官に伺いを出した。「外一島」の意味について、内務省は何の説明もしていない。・・・。
    5.太政官は、・・・決定を下した。そのさい、竹島外一島について、内務省から提出された文書の内容に新たな解釈を加えたり、変更したりしていない。
      ----------------------------------

     の理由を、竹内氏は
      ----------------------------------
     「外一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであり、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島と見なされていたことを示唆している。
      ----------------------------------

    と説明していると理解できます。

     すなわち、竹島とマノ島は「連動して一体的に帰属が定まる島である」から、外一島=マノ島と捉えた内務省は「松島については何等の判断もしていないと考えられる」。
     しかし、松島は、竹島記事に出現しない島であり、竹島とは歴史的経緯が異なると考えられ、「連動して一体的に帰属が定まる島」とは言えません。故に内務省は松島について何らの判断をしなかったのです。

    .

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  2.   明治一四年の当事者たちの地理的認識

     明治一四年の文書の当事者たちが、島名について混同・混乱することなく議諭できた理由は、次のように考えられる。

     第一の理由は、文書担当者たちが明治一〇年の「太政官指令」で使われている「竹島外一島」について検討する際、具体的な島名が省略されている「外一島」の方には何ら関心を持たず、したがって検討もしなかった(と推察される)からである。
     「竹島外一島」における「外一島」という表現は、「外一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであり、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島と見なされていたことを示唆している。
     これと同じことは、たとえば「大屋兼助外一名」についても言えるであろう。ここで具体的氏名の省かれた「外一名」は「大屋兼助」と一体的に扱われる、文書の中では自己を主張しない存在である。したがって「外一名」のことは、細かいことを問題にするのでなければとりあえず無視して構わない、文書上では「大屋兼助」に従属する存在といえる。

     第二の理由は、明治一四年の時には、この日本海域にある二島のことが、島名の沿革や島の特徴を含めて、政府関係者の間で正確に共通理解されるようになっていたからである。
     その事実は、外務省の北澤正誠「竹島版図所属考」(明治一四年八月二〇日調製)の中に次のように書かれているのを見れば納得がいくはずである。
     「竹島一名ハ磯竹島又松島ト称ス。韓名ハ欝陵島又芋陵島卜称スル者此ナリ。但其地本邦朝鮮ノ間二在ルヲ以テ古来紛議両国ノ問二生セシモ、元禄九年二至り境界判然、復夕異議ナシ。今ヤ我国史及ヒ韓漢ノ記伝二就キ其源流ヲ究メ、其沿革ヲ詳ニシテ之ヲ左二論述セントス」(「日本外交文書」第一四巻所収、p390.句読点は引用者)

     北洋正誠は、右の書き出し部分に続く本文の中で同島の沿革を詳述し、その最後の部分で、明治一〇年に東京府に提出された「竹島渡海」願書(島根県士族・戸田敬義提出)およびその前にウラジオストクの貿易事務官を経由して外務省に提出された「松島渡海」に関する願書(陸奥の人・武藤平学、下総の人・斎藤七郎兵衛などが提議)等の請願を受けて政府内部で島名をめぐる議論(「紛議」)が起きたこと、そしてそれが最終的には明治一一年と一三年の海軍・天城艦による現地での実見測量によって事実確認がなされた結果議論が収拾されたことを記し「由此観之ハ今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ古来我版図外ノ地タルヤ知ルヘシ」(同上書、p394。ルビは引用者)と結論を述べているのである。

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